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啓徳大学病院の処置室のベッドで有紗は眠っていた。有紗の父親の高山政行はこの病院の精神科の部長だ。
彼女は点滴の管を腕に巻いて目を閉じている。有紗の側には早河が付き添っていた。
ジャケットに入れた携帯が振動する。矢野からの着信だ。有紗が眠っていることを確認して早河は処置室を出た。
途中で何人かの看護師とすれ違いながら人のいない廊下の奥に進み、通話に応答した。
玲夏と蓮の無事と乃愛の再逮捕の報告に彼は胸を撫で下ろす。
{それで早河さんに確認したいことがあって。佐伯の様子はどんな感じでした? 変な雰囲気を感じませんでした?}
『ああ。逮捕の時に急に抵抗がなくなって大人しくなった。栗山さんが糸の切れた操り人形のようだと言っていたな』
{やっぱりそっちもか。乃愛もそうなんですよ。目が虚ろでぼぉーっとして、最後は体に力が入ってなくてひとりで歩けない状態になっていました}
早河は廊下の壁に背をつける。彼は逮捕された直後の佐伯の様子を思い返した。
『佐伯もそうだった。佐伯と乃愛の状態の一致が気になる』
{俺も気になって、乃愛に最近誰かが会いに来なかったか聞いたんです。乃愛は神様が会いに来たと言っていました。ここから出れば欲しいものが手に入ると神が言っていたとか}
『神様ね。佐伯にもその神様とやらが接触していたとすれば……』
{脱獄も有紗ちゃんや玲夏ちゃんを襲わせたのもそいつの差し金ってことです}
今回の脱獄劇の筋書きが読めた。
『神が誰かは察しがつくけどな』
{神様気取るような罰当たりな奴は一人しか浮かびませんからね。あと、例の黒崎来人……}
『動きがあったか?』
{動きとしては何も。ただ俺を見て笑っていました。乃愛が逮捕された直後のあの状況で……あれは尋常な笑いじゃない。この事態を面白可笑しく愉しんでいるみたいなイヤーな笑いでしたよ}
『黒崎のことはもう少し探る必要がある。あと、悪いがなぎさを病院まで連れて来てくれるか? なぎさに有紗のこと頼みたい』
{わっかりましたー。だけど有紗ちゃんも間に合ってよかった。ほんとに……よかった}
矢野のホッとした息遣いが伝わる。有紗も玲夏も蓮も、かろうじて守れた。
{なぎさちゃんをそっちに送り届けたら俺は三鷹に行きます。上野さんと真紀が今朝の狙撃事件の捜査してるでしょう}
『わかった。また連絡してくれ』
処置室に戻る廊下を歩いていると、処置室から白衣を着た女性が出て来た。なぎさの友人で心理カウンセラーの加藤麻衣子だ。
「高山先生はお昼の新幹線でこちらに戻られるそうです」
『そうですか……。高山さんが不在の時にこんなことになってしまって……申し訳ないです』
九州に出張予定だった高山は出張の予定をキャンセルして東京に戻ってくる。佐伯に再び命を狙われた有紗が心配なのだろう。
『有紗の症状はやはりPTSDですか?』
「ええ。自分を殺そうとした男がまた目の前に現れたんです。フラッシュバックが起きて過呼吸になったのだと思います」
処置室の扉を見つめる麻衣子の表情は曇っていた。
「1年かけて少しずつ症状が緩和してきた矢先に……。有紗ちゃんの心が心配です。でも私達が有紗ちゃんに出来ることは限られています。側で見守るしかありません」
『そうですね。見守ってやることしかできない。なぎさがこちらに向かっています。高山さんが戻るまでの間、なぎさに有紗の付き添いを頼みました』
「わかりました。……あの、早河さん」
処置室の扉を開けた早河は麻衣子の呼び止めに振り向いた。
「早河さんがカオスを壊滅させた時は、莉央も逮捕されることになりますよね」
『……ええ。なぎさと加藤さんには辛い結果になりますが』
「当たり前なことを聞いてしまってごめんなさい。覚悟はしているつもりです。きっとなぎさも……」
早河に会釈して麻衣子が立ち去った。処置室に並ぶベッドの一番奥に有紗が寝ている。
「……早河さん」
『起きたか』
有紗が薄く目を開けた。彼女は顔を動かして傍らの早河を見る。
『お父さんもすぐにこっちに帰ってくるからな』
「お父さん……出張だったのに……私のせいで仕事が……」
『有紗が気にすることじゃない。お父さんはそれだけお前が大切なんだよ。今はゆっくり休め』
早河は有紗の頭を優しく撫でた。有紗はくすぐったそうに目を細めて早河を見つめる。
彼女の目には涙が溜まり、身体を起こした有紗は早河に抱き付いた。
「怖かった……」
『大丈夫。もう何も怖くない。俺もお父さんも、みんなが有紗のことを守ってる』
早河の胸元に有紗の涙が滲んで跡を作る。泣きじゃくる有紗を抱き締めて早河は誓った。
絶対なんてものはこの世にはないのかもしれない。それでも絶対に、守り抜く。
絶対に……。
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