第一章 Audience

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第一章 Audience

 真実の中には何もない  真実は四角い箱  箱の中には何がある?  箱は開かない  鍵がないから箱は開かない  鍵はどこにある?  真実を開ける鍵はどこにもない  マリオネットが嘲笑う  顔のないマリオネットが嘲笑う……         * 12月1日(Tue)  片側だけ開けられたカーテンから射し込んだ柔らかな朝の光が部屋を照らす。目覚めの挨拶を奏でる鳥のさえずりで早河仁は目覚めた。 『……またあの夢か』 枕元の目覚まし時計の針は午前7時17分、朝が苦手な早河も最近はこの時間に目が覚める。朝寝坊をしなくなった理由は色々とあるが、ひとつ理由を挙げるとすると最近頻繁に見る夢の影響だった。  地球儀を背にして踊る操り人形(マリオネット)の夢。人形には顔がない。 顔と呼ばれる部分は存在しているのに、あるべき位置に目や口がない、のっぺらぼうだ。 顔のないマリオネットがじっとこちらを見て嘲笑っている、不快な夢だった。  厚手の毛布にくるまってシーツに顔を埋めた。そこに残る自分以外の存在の匂いに安堵する。ここで夜を共に越えた彼女の匂いがした。 耳を澄ませると、隣のキッチンから物音が聞こえた。重たい瞼をこすって身体を起こす。 寝室は暖房がついていて暖かい。  部屋着に着替えて寝室を出た早河の視界にはキッチンで朝食の準備をする彼女の姿がある。朝が苦手な彼が朝寝坊をしなくなった最大の理由が恋人の香道なぎさだ。 「おはよう」  花柄のエプロンをつけたなぎさが振り向いた。そのエプロンはなぎさが友人の加藤麻衣子から恋人記念と称してお祝いに貰った物。 自分達が恋人になったことが周囲に祝われるほど大層なことなのかは疑問だが、花柄のエプロンをつけて朝食の支度をするなぎさを見るたびに、これではまるで新婚夫婦だと苦笑いしたくなる。 恋人になってからは毎日ではないがなぎさが早河の自宅に泊まり、翌朝を一緒に過ごす機会が多くなった。朝御飯を作ってくれるなぎさがいると必然的に朝寝坊もしなくなる。 『おはよ』 冷蔵庫からペットボトルの水を出して一口飲んでから彼は鍋を覗き見る。 『今日の朝飯なに?』 「野菜たっぷりゴロゴロポトフでーす」 『お、旨そう』 「もうすぐできるから待ってて」 『ん……でも少しだけこうさせて』  コンロの前にいるなぎさを後ろから抱き締めた早河は、彼女の首もとに鼻先をつける。鍋の蓋を開けて中身の確認をするなぎさは首もとにある早河の寝癖のついた髪にそっと触れた。 「あの、これだと動けないよ?」 『ちょっと我慢な』 早河はなぎさの首筋や鎖骨に顔を埋めた。 くすぐったさの中に次第に甘くて官能的な刺激が加わった。なぎさは鍋の様子と早河の行為と、どちらも気になって狼狽える。 『いい加減慣れろよ。付き合って2週間だぞ』 「だって……まさかこんな風になれるなんて思わなかったから恥ずかしくて……」  朝から容赦ない早河のアプローチに照れるなぎさの顔は真っ赤だった。メイクをしていない素っぴんだからこそ余計に頬の火照りがよくわかる。 ゆでダコみたいに赤くなるなぎさを見て早河は笑って、ペットボトルの水を抱えてリビングに入った。焦げ茶色のソファーに腰掛けて朝刊を開く。 {今月11日に行われる日米首脳会談では……}  テレビでは12月11日に日本で行われる日米首脳会談に関連するニュースが流れていた。今回の首脳会談はアメリカの大統領が変わってから初めての会談になる。 日米首脳会談のニュースが終わった頃、なぎさが作ったポトフの皿がテーブルに並んだ。朝食の時間だ。 『今日の予定は?』 「11時に素行調査の依頼をされた前田さんが報告書を受け取りにみえます。それ以外は特に予定は入っていません」  なぎさは早河の恋人になってからも、仕事の話をする時は助手としての口調を心がけている。彼女なりの仕事とプライベートの分け方だ。 『じゃあ今日は他の予定を入れないでくれ。前田さんの件が終わった後に出掛けてくる』 「わかりました」  朝食後に早河がキッチンで食後のコーヒーを淹れている最中、なぎさの携帯電話が着信を告げた。 リビングでコーヒーが出来るのを待っていたなぎさは携帯の着信表示の“お母さん”の文字に無意識に心臓を押さえつけた。 『電話?』 「お母さんから……」 『……早く出た方がいい』 「うん」 彼女は決心して通話ボタンを押した。 「もしもし……」 {なぎさ。おはよう} 母の声に緊張が高まる。 「おはよう……。お母さんどうしたの?」 {今夜こちらに帰って来られる?} 「えっ? 今夜?」 {できれば早河さんにも一緒に来てもらいたいの。お父さんが早河さんにお話があるそうよ} 「話って何の?」 {さぁ……でも急ぎのお話らしいから早河さんのご都合聞いてもらえる?} 「……うん。わかった」  母との数分の通話を切ったなぎさは溜息をついて携帯をテーブルに置く。コーヒーの薫りを漂わせたマグカップを二つ持った早河がリビングに入って来た。 「お父さんが仁くんに話があるから今夜実家に来てほしいって……」 『わかった』 彼は二つ返事で頷いてなぎさの隣に座る。なぎさは温かいカップを両手で抱えた。 「何の話だろう……」 『お父さんが俺に話って、なぎさのこと以外考えられないけどな』 「やっぱりそうだよね」 熱くて苦味のあるコーヒーを飲むとだんだん頭がクリアになってくる。 『お父さんには俺とのことはまだ?』 「お父さんにもお母さんにも話してない。言うタイミングがなくて」  なぎさは早河と恋人関係になったことを両親に話していない。早河のプロポーズを受けたことも彼と結婚する意思があることもまだ両親は知らない。 『俺も近いうちになぎさのご両親には挨拶に行くつもりだったよ。あちらから呼んでくれたのなら行きやすい。いずれにしろ緊張するよな』 「別れろって言われたら……どうするの?」 『そうだな。もしそうなった時は……』 早河はなぎさを抱き寄せて彼女の耳元で優しく囁いた。
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