第三章 Bisque doll

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 啓徳大学病院に到着した早河と高山は有紗に会う前に精神科のスタッフルームに立ち寄った。 『ここが神明先生のデスクです。彼は非常勤なので荷物はあまり置かれてはいませんが……』  神明大輔が貴嶋だとわかってはいても高山はどうしても呼び慣れた呼称で呼んでしまっている。 早河は貴嶋が神明として使用していたデスクの引き出しを躊躇なく開けて中を探った。 精神科のスタッフ達は部長の高山の帰京に安堵した様子だったがすぐに顔色を変えて早河の動きを目で追っていた。高山が神明の正体の説明をすると女性スタッフからは小さな悲鳴が上がり、皆が動揺していた。 「神明先生ならついさっきお見えになっていました。デスクで作業をされた後にまた出ていかれましたけど……」 『それは何時頃ですか?』 早河が尋ねると女性スタッフは自身の腕時計を見て時間を確認した。 「2時間くらい前です。確か2時頃だったと思います」 『2時……ニアミスもいいとこだ』  早河が東京拘置所に行くために病院を出たのが1時頃、おそらく貴嶋は早河が病院を出たことを確認した後にここへ来た。  神明のデスクには筆記用具や患者のリスト以外に目ぼしいものは入っていない。用意周到な貴嶋は自分の居所がわかるものは残さない。 早河はデスクのセンター引き出しを開けた。空っぽの引き出しの中に一枚のメモ用紙が中板の中央部にセロテープで固定されている。メモを見た早河はメモ用紙をセロテープごと慎重に剥がしてジャケットのポケットに押し込んだ。 『……ダメです。神明先生の連絡先となっている携帯の番号も繋がりません』  高山が受話器を置いてかぶりを振る。今さら驚くことでもない。こうなることは早河には予想がついていた。 『“神明大輔”はもうここには現れないでしょう。最初から今日で神明の役を終わりにする予定だったんですよ。高山さん、有紗のところに行きましょう』 『ええ……。気が重いですね。有紗は神明先生のことを気に入っていましたから……』 娘のことが心配な高山も早河と共に最上階に上がるエレベーターに乗り込んだ。有紗は最上階のカフェにいるとなぎさからメールをもらっている。 『申し訳ありませんが、有紗には神明先生のことは早河さんから伝えてください。私もまだ受け入れられないんです。恩師の紹介だと安心しきって犯罪組織の人間に有紗のカウンセリングを任せていただなんて……。それも有紗を殺そうとした佐伯の上にいた人間に……。なんてことだ』  額を押さえて苦悩する高山に向けて早河は頷いた。 本心では早河も動揺している。なぎさのメールによれば、なぎさは神明大輔としての貴嶋と顔を合わせているようだ。自分の知らない間に貴嶋がなぎさに接触していた。 自分の領域が、大切なものが脅かされている感覚は非常に気分が悪い。  二人が最上階のカフェに入ると奥の席に女性三人の姿が見える。有紗となぎさ、高山の部下の加藤麻衣子だ。 「あっ! お父さんと……早河さんっ! 早河さーんっ、おかえりなさーい」 椅子を降りてピョンピョン跳び跳ねる有紗は人目を(はばか)らずに早河に抱き付いた。 早河は有紗の後方にいるなぎさと麻衣子と目を合わせる。事情を知っている二人の表情も冴えなかった。  彼は抱き付いてきた有紗の頭を撫で、彼女の肩を押して引き離した。 『話があるんだ。とにかく座ろう』 「うん」  早河の言うことを素直に聞いて有紗は元の場所に座った。有紗達のテーブルには数冊のファッション雑誌がページを開いたまま散乱している。なぎさが雑誌を閉じて隅に片付けた。 四人掛けのテーブルに早河となぎさ、向かいに有紗と麻衣子が座り、高山は隣の席に落ち着いた。 大人達の表情の暗さに気付いた有紗は全員の顔をキョロキョロと窺って首を傾げる。 「みんなどうしたの? 早河さんもお父さんも暗い顔して。私ならもう元気だよ?」 『……有紗。今から俺が言うことは本当は有紗は知らなくてもいいことかもしれない。だけど俺は有紗には知っていて欲しいと思ってる。それが有紗のためだから。これが俺の気持ち。まず先にこれだけ言っておくな』 「えっと……うん。わかった。話って何?」 顔を強張らせた有紗が髪の毛の毛先を指で弄ぶ。これは有紗が不安を感じている時に表れる癖だ。 『有紗のカウンセリングを担当した神明先生は本当は臨床心理士でもなければ、神明大輔という名前でもない』 「……神明先生?」  有紗はまばたきを繰り返した。この後の言葉を慎重に選んで早河は話を続ける。 『神明大輔の正体は犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖。……佐伯洋介が所属していた犯罪組織のトップだ』 佐伯の名に有紗の唇が震えた。隣にいる麻衣子が有紗を抱き寄せて肩をさする。 「あ……の……どういうこと? わけがわからない」 『だよな。わけがわからなくて当たり前だ』 「神明先生は……神明先生じゃなかったの?」 『臨床心理士の神明大輔はこの世に存在しない。貴嶋が作り出した架空の人間だ』  唇と一緒に有紗の肩も震えている。かなり混乱しているようだ。 神明の正体を有紗には言わない選択も考えた。しかし貴嶋を〈臨床心理士の神明大輔〉と思い込んでいる有紗にもしも貴嶋が接触を試みれば簡単に命を奪われる危険もある。 これは有紗を守るための苦渋の選択だった。 「でも……神明先生、いい人だよ。優しかったし……あんないい人が犯罪組織のキングって言われても……」 『それは神明大輔という偽りの仮面だ』 「だけど……っ!」 有紗の声が大きくなった。彼女は赤ん坊が駄々をこねるように頭を左右に揺らす。 『有紗。お前の前に神明大輔として現れていた貴嶋はなぎさの兄で俺の先輩刑事の香道さんを俺の目の前で殺している。俺の父親も貴嶋に殺された。受け入れたくなくてもそれが現実だ』 有紗はなぎさを見る。それから早河を見た彼女の目からは涙が溢れていた。
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