第三章 Bisque doll

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 有紗の泣き顔を見るのが辛くて早河は席を立つ。カフェを出る早河をなぎさが追いかけた。 エレベーターホールに続く廊下の壁に早河はもたれる。彼は追いかけてきたなぎさを引き寄せて抱き締めた。なぎさがつけているヘアコロンのフローラルの香りに包まれるとささくれだった心も安らいだ。 『有紗にキツイ言い方しちまった』 「大丈夫。今は混乱してるだけだと思う。有紗ちゃんならきっとわかってくれるよ」 『有紗の気持ちもわかってるんだけどな。どうにも有紗が貴嶋を信頼しているってことがムカついてやりきれない』  早河はジャケットのポケットから先ほど見つけたメモ用紙を出してなぎさに見せた。 『これ、大体の意味はわかるけど訳して』 「なにこれ?」 『貴嶋が神明として使っていたデスクの引き出しに入ってた。引き出しを開ければ確実に見える場所にご丁寧にセロテープで固定してな』 メモ用紙を受け取ったなぎさはそこに書かれた文字を黙読する。上部にセロテープが残った小さなメモ用紙には筆記体で英語が綴られていた。 「“ Congratulations!  How does it feel ? ”」 海外留学経験のあるなぎさの綺麗な発音でその英文が読み上げられる。 『Congratulationsは“おめでとう”って意味だろ?』 「うん。How does it feelは……」 口ごもるなぎさを早河は目で促す。彼女は早河を見上げた。 「“どんな気持ち?”」 『とことん性根の腐った奴だ。貴嶋は俺が神明の正体に気付くことも、ここに来て神明のデスクを調べることも予測していた。俺がこのメモを読むことを見越してアイツは引き出しにこれを残した。最初のCongratulationsは俺が神明の正体に気付いたことへの称賛か』 なぎさの手からメモを取り上げて粉々に破き、紙くずを丸めて廊下のゴミ箱に投げ捨てた。 『何が“どんな気持ち?” だ。今頃どこかで俺の事を嘲笑っているんだろうな』  早河の拳が壁に打ち付けられた。なぎさは早河の拳にそっと両手を添える。彼の拳が開かれてなぎさの手を握った。彼女の左手薬指には渡したはずの指輪がない。 『指輪外したのか』 「有紗ちゃんの前だから……」 『そっか。結婚のことも有紗に話さないとな。嘘つきって言われそうだ。さっきのこともあるしこれで俺のこと嫌いになるかもな』 弱々しく苦笑いする早河の顔色は悪い。今日だけで早河の周りで事件が起き過ぎた。 疲れた彼に寄り添うことしかできない無力な自分がなぎさはもどかしかった。 「嫌いにはならないよ。そんなこと絶対にない」 それでもこれが自分の役割なのかもしれない。早河と共に生きていくことは、彼の痛みを共に背負い、彼の痛みに寄り添うことだから。 『少し充電させて』 「ん……」  誰にも見えないところで、誰にも見られないように、二人は唇を重ねた。フローラルの香りが心地いいなぎさの髪に顔をうずめて早河は深呼吸を繰り返す。 なぎさの存在がなによりの癒しだった。  しばらくそうしているとジャケットの右ポケットが振動を始める。なぎさを抱き締めたまま早河は携帯を耳に当てた。 {爺さんの無事、確認とれました。東京がこれだけ異常事態に陥ってるのにのんびりゴルフを楽しんでましたよー。まぁ、一連の情報は爺さんの耳にも入っていますけどね} 武田財務大臣は今のところ無事のようだ。早河はなぎさの肩に顎を乗せて一息ついた。 『ゴルフとはタケさんらしいな。だがまだ油断はできない。いつタケさんがターゲットにされるかわからないからな』 {そうっすね。阿部警視が警護の手配してくれたので爺さんの方はとりあえず一安心ってことで。俺は君塚のこと調べてみます} 『そっちは任せた。矢野、気を付けろよ』 {へーい}  明るく笑う矢野の声に胸騒ぎを覚えたのはどうしてだろう。 通話を終えた携帯電話の画面を見つめる早河の顔をなぎさが不安げに覗き込んだ。拭えない胸騒ぎを必死で追い払って早河は携帯をポケットに戻した。
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