第一章 Audience

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 矢野一輝が走行中の車内で白い歯を見せて笑っている。日差しが気持ちいい午後2時の街は穏やかだ。 『……で、“もしそうなった時は……”の続きは何て答えたんですか?』 『面白がってるだろ』 今朝の出来事を矢野に話したのは失敗だったとハンドルを握る早河は舌打ちした。 『半分はねー。もう半分は真面目に聞いてますよ。ついに香道家にお呼ばれですからね。これは一大事だ』  中野区にある警察病院の駐車場に車が滑り込んだタイミングで矢野が指を鳴らす。 『まさか、“そうなった時は俺と駆け落ちしよう”とか、キザァなこと言ったりしてませんよね?』 車を駐車してシートベルトを外した早河の動きが止まった。不思議な間が空いた後、矢野が笑い出す。 『マジ? エスパー矢野くん大正解?』 『……行くぞ』  ばつの悪い顔で先に車を降りた早河に続いて矢野も車を降りた。駐車場を覆う木々から落ちた枯れ葉がコンクリートの上で舞っている。 『ほぉ、駆け落ちかぁ。早河さんがそんなこと言うようになるとは。今夜、お父さんに娘さんを下さいーっ! って土下座するわけですね。ダメだ! お前に娘はやらないっ! と言われた時には二人手を取り愛のラブラブ逃避行……』 『勝手にニヤニヤするな』 駐車場を横切って目の前にそびえる四角い建物を目指す。早河の横に矢野が並んだ。 『お前は小山の親には挨拶行ったのか?』 『まだ。真紀の家は離婚してるから俺が会うのはお母さんと妹さんだけかな。ちゃんと娘さんを下さいって言いに行きますよ。その為にも……』 矢野が立ち止まり、早河も足を止めた。 『この勝負、負けられませんね』 『ああ。絶対にな』  二人は再び歩を進めて警察病院の扉を潜り、入念なボディチェックを受けて外科病棟に入った。 2週間前に腹部を刺されて負傷した警察庁の阿部知己警視がこの病院に入院している。警察庁ホープの阿部だけあり、病棟の廊下には見張りの警官が配置されて厳戒体制の警備だ。 『物々しい雰囲気だなぁ』 『警察病院なんてどこもそんなものだ』  早河が阿部警視の病室の扉をノックした。スライド式の扉が開いて腹部がふっくらとした女性が二人を出迎える。妊娠中の阿部の妻だ。 阿部夫人に会釈して室内に招かれる。この病室の主の阿部知己はベッドに上半身を起こして新聞を読んでいた。 『おう。来たか』 『お加減いかがですか?』 『安定してる。来月半ばには職場復帰できそうだ』  阿部は夫人に目配せする。この夫婦にはそれだけで意志疎通ができるのだろう。 夫人はロッカーから紙袋を出してそこから見舞いの品と思われるクッキーの缶を取り出した。 長方形のクッキー缶の中にはひとつひとつ小袋で包装されたクッキーが敷き詰められている。土産物によくあるクッキーの詰め合わせだ。 『見たところ毒入りではなさそうだ。好きに食っていいぞ』 『遠慮なくいただきまーす』 微笑した夫人の手からクッキーを受け取った矢野は小袋の封を切る。クッキーは丸い形のチョコチップクッキーだった。 『その見舞いの品が昨日家に送られて来た』 『病院ではなく警視の自宅に?』 『そうだ。差出人は俺の大学の同級生……だがそいつに確認したところ、そんなもの送った覚えはないと言っていた。中身は普通のクッキーだが……』  淡々とした口調で語った阿部は缶に敷き詰められているクッキーを全て出して仕切りに使われているトレーとその下に敷かれたクラフト紙も取り去った。 『クッキーの下にこれが入っていた』 テーブルの上に散らばるクッキーと無惨に取り払われたトレーとクラフト紙。そして金色に光る缶の底には黒色のUSBメモリが横たわっていた。
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