第四章 Marionette

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12月10日(Thu)午前6時40分  矢野一輝は目黒区緑が丘の道に車を停めた。付近の住宅街には小綺麗な一戸建てや背の低いアパートやマンションが整列している。 東京には様々な特色を持つ街があるが、目黒区と聞くと矢野はいつも大人しそうな箱入り娘のイメージが思い浮かぶ。きっと目黒区在住だった高校時代の女友達の影響かもしれない。  この住宅街の並びに高山政行の恩師、君塚忠明の自宅がある。君塚は現在75歳、彼の専門分野は犯罪心理学。 高山政行の出身校の私立大学心理学部の教授、最後は学長に上り詰めた。 数年前まではワイドショーに頻繁に出演していた著名人だったが、今は表舞台から隠居して緑が丘の住まいで妻と二人で暮らしている。  日の出を迎えた太陽がフロントガラス越しに見えて矢野は朝の光に左手をかざした。  小山真紀もじきに到着する。 君塚はワイドショーのご意見番として熱弁をふるっていた男だ。アポ無しで事情を聞くには職業上は一般人の矢野が訪ねるよりも警察官の肩書きを持つ真紀と共に訪問した方が君塚の対応も違うはず。 刑事が掲げる警察手帳の効力はどんな相手にも有効だ。 真紀の到着を待つ間、入手した君塚の情報を整理してどうアプローチを仕掛けるか模索する。  犯罪心理学を専門とする君塚は心理学界の権威として一時代を築いた。数多の異常犯罪者の精神鑑定の研究チームを指揮し、数々の犯罪心理に関する本や論文を発表している心理学界の大物。 1990年代に入ってからは俗に言うサイコパスやテロリストの研究にも力を入れていた。  今から44年前の1965年。 貴嶋佑聖の父親で当時14歳の辰巳佑吾が両親を殺害後、無差別に人を殺した世田谷無差別殺人で辰巳の精神鑑定を行ったチームのメンバーに当時30代の君塚忠明がいた。 君塚は辰巳佑吾の精神鑑定で彼と接触している。日本の犯罪史上最悪の犯罪者の異名を持つ辰巳と直に会ったことのある数少ない人物だ。 (犯罪史上最悪の犯罪者の名前は息子に受け継がれつつあるけどな) 犯罪心理学専門の君塚には辰巳は貴重な研究対象だ。 辰巳の出所後に君塚が辰巳と関わりがあったとされる情報はないが、高山政行のもとに神明大輔の役を演じる貴嶋を潜り込ませた人物が君塚ならば、君塚は辰巳ともその息子の貴嶋とも関わりを持っていたと推測できる。 (なんてったって精神のプロだからなぁ。挑発して簡単に口滑らせてくれる爺さんじゃなさそう。真紀が来たら入念に打ち合わせして……)  矢野の車の側を男が素通りした。その横顔に彼は見覚えがあった。最近どこかで見た顔だ。 『あいつは……』  早朝の住宅街を歩く男は君塚の自宅の前で足を止めた。男は躊躇なく家の門扉を開けて君塚邸の敷地に入る。 急いで車を降りた矢野は犬の散歩をする婦人の横を通って電柱の後ろに隠れた。玄関の扉に手をかけた男がこちらを見てニヤリと口元を上げる。 男の含み笑いに胸騒ぎと悪寒を感じた。 (まさか君塚を……) 周囲を警戒して矢野は君塚の邸宅の敷地に一歩入った。 犬の散歩中の婦人は曲がり角を曲がって見えなくなり、朝の7時前の街にまだ人の気配はない。しばらくすればゴミ出しの主婦や出勤するサラリーマンと行き交ってしまう。 おまけに近くには小学校がある。あと数十分もすれば子ども達の登校の時間だ。不測の事態が起きた時に子どもや一般人を巻き込みたくない。  迷っている暇はなかった。矢野は石畳を駆け抜けて玄関ポーチの下に入った。 (おっと。素手はまずい。……あいつも手袋してたっけ) ハンカチでドアノブを掴んで回す。抵抗もなく扉は開いた。さっきの男もピッキングをしていた様子はなく、鍵は最初から開いていたと思われる。 (薄々わかっちゃいるけどこれって罠だよな。あれは俺をおびき寄せていた) わざわざ矢野に顔を見せたのがその証拠だ。罠とわかっていても、矢野は踵を返さない。 『真紀、ごめん。先に行くよ』  ここにはいない真紀に一言謝ってから矢野は扉の内側に身体を滑り込ませた。靴は脱がずに玄関を上がる。 家の中は物音ひとつ聞こえず、暖房もつけられていない室内は冷えきっている。 矢野は息を殺してフローリングの廊下を進み、左手に開け放たれた扉に視線を向けた。中を覗くとそこはリビングらしく、大きなソファーとテレビ、奥にはダイニングとシステムキッチンが見える。早朝の住宅に人の気配がまるでなかった。 (君塚夫妻とあいつは二階か)  矢野は二階に繋がる階段に目をやる。注意深く左右を見回してから彼は階段の段差を一段ずつ踏んだ。 階段を上がりながら携帯電話の着信履歴から番号を選び、相手と繋がったところで通話状態にしてコートのポケットに忍ばせた。 こちらは丸腰で武器はない。真紀の到着を待つ方が得策なことはわかっている。 (わかっちゃいるんだけどねぇー。止められないのさ、ははんっ♪) 階段の最後の一段を上がり、二階の廊下部分に出た。ここまで来ても物音は聞こえない。当たって欲しくない予感が脳裏をよぎった。
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