第四章 Marionette

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 冷えた空気の漂う廊下に扉が並ぶ。奥の扉がわずかに開いていた。矢野はまたドアノブをハンカチで包み、扉を開けて中に入る。 君塚夫妻の寝室と思われる部屋で白髪の老人と老婦人が倒れていた。君塚忠明とその妻だ。 君塚は床に仰向けで倒れ、妻はベッドに伏している。二人共寝間着のままだ。 予想通りの展開に矢野は驚きも狼狽もせず、ただ先を越されて君塚を始末されたことへのやりきれない思いが込み上げて悔しかった。  身を屈めて君塚に触れた。脈はなく身体は冷たい。首に巻かれた紐から絞殺だと察しがついた。 次にベッドにいる君塚夫人にも触れた。生きている人間の温かさは失われ、夫人の首にも絞殺の痕跡が確認できた。 紐が君塚の首に残っていることを考えると先に夫人を殺してから君塚を殺したのだろう。 (こっちには吉川線が凄いな) 君塚夫人の首には抵抗した時につけられた吉川線と呼ばれる引っ掻き傷が残っている。吉川線があるのは夫人だけで君塚にはなかった。君塚は殺される時に抵抗しなかったと言うことだ。 (君塚は貴嶋と繋がっていたけど奥さんは関係ねぇだろ。奥さんまで殺すことない。カオスの人間は容赦ねぇな)  通話状態にした携帯を取り出そうとポケットに手を入れた矢野はその気配を感じ取った。素早く受け身をとり背後からの攻撃を避ける。 矢野が避けたところに金色のトロフィーを持った手が宙を切った。 『あんたが殺したのか』 身構えた矢野と振り向いた男が睨み合う。矢野をここまでおびき寄せた男だ。 矢野はこの男を知っている。 『警視庁警備部、警備情報三係所属の林田(はやしだ)さん。あんたとは警察病院でお会いしましたね。阿部警視の病室から出てきた俺達を追いかけて鬼ごっこして遊びましたけど覚えてますかー?』 『俺のことを調べたか。さすが早河探偵の右腕だな』  警視庁警備部の林田刑事はニヒルに笑っている。 早河の指示で矢野は警察病院の防犯カメラをハッキングした。ハッキングで入手した映像と警察官データベースを照らし合わせ、警察病院で自分達を尾行していた男の正体が警視庁警備部の林田だと掴んだ。 『あんたが殺したんだな?』 もう一度同じ質問をする。林田は面倒くさそうに鼻を鳴らして手に持つトロフィーを弄ぶ。あのトロフィーは君塚が何かの賞を受賞した時の物だろう。あれで頭を殴られたら一巻の終わりだ。 『誰が殺しても同じ事。どうせもう死んじまってるんだ』 『君塚の始末は貴嶋の命令だろ。あんたカオスの人間か?』 『答える必要はない』  戦闘態勢に入った林田がこちらに突進してくる。トロフィーを持つ林田の手が振り下ろされる前に、矢野は林田の攻撃をかわして彼の顔に拳を打ち込んだ。 林田が怯んだ隙を見て矢野は廊下に飛び出したが、鼻から血を出しながら追ってくる林田にコートの裾を掴まれて前のめりに廊下に倒れた。 身体を打ち付けた衝撃で動きが止まる矢野の上に鬼の形相の林田が馬乗りになる。足で林田の腹部を蹴り上げて逃れようとする矢野の頭に容赦なく金色のトロフィーが振り下ろされた。 頭に受けた衝撃、流れ出る生暖かな血が顔をつたって床に落ちた。 (早河さんの周りから片付けようって作戦だろうが……まったく、セコい連中だ)  痛む頭部を押さえて荒い呼吸を繰り返す矢野の腹部を林田が蹴り飛ばす。激しく咳き込む矢野は廊下を進もうと這いつくばるが視界がかすんで手足も上手く動かせない。  血のついたトロフィーを高く掲げて矢野に最後の一撃を加えようとした林田の動きを止めたのはパトカーのサイレンの音。どんどん大きくなるサイレンの音は意識が朦朧とする矢野の耳にも届いていた。 (グッジョブだ……さすが……) もう声も出せない。荒くなる呼吸の中で矢野は目を閉じる。下ろした瞼の裏側に真紀の笑った顔が浮かんだ。
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