第四章 Marionette

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 八階に降りた美月は手すりに身体を預けて呼吸を整えた。 (はぁ……やっと八階……)  手に持っていたヒールの靴を床に置き、うずくまった。感覚が麻痺してきた足をさすって上を見上げる。 二十一階で聞いた足音はもう聞こえない。夢中で降りていたから足音が聞こえなくなっただけなのか、相手が追ってこなくなったのか、自分の息遣い以外は何も聞こえなかった。 (でもこのまま降りれば一階で待ち伏せされているかもしれない。駐車場のゲートから出よう)  昨日、三浦との外出で地下駐車場に行かなければこの策はきっと思い付かなかった。八階から一階に出た美月はさらに下に降りた。 地下一階に降りると、廊下の先にぽっかり口を開けた薄暗い空間が見える。ガスやガソリンの臭いが混ざった地下駐車場独特の臭いが濃く漂っていた。  階段は昇るのも辛いが降りるのにも体力を使う。三十二階から地下一階まで降りた美月の体力は消耗し、限界が近かった。 (私はキングの人形じゃない。絶対に人形にはならない) 気を強く保たなければ倒れそうだった。重たい身体を引きずってどうにか足を進める。 [出口→]の矢印に従って進んでいても、果てしなく広がる灰色の世界は巨大な迷路のよう。 三浦の車が駐車場のどの位置に停められていたのか、方向感覚も曖昧な今となっては思い出せない。でも出入りのゲートがいくつかあることは覚えている。 (あった……! これで外に出られる!)  緩やかな上り坂のゲートに向けて走り出し、地上に繋がるゲートの坂道を必死に上った。外は太陽が眠りについた12月、冷気が肌を突き刺して寒さに鳥肌が立ってくる。  赤坂の外堀通りに繋がるゲートから外に出た美月は足をもつれさせてコンクリートの地面に手をついた。 疲労と寒さに震えて一歩も動けない。ここまで持ってきたヒールの靴もまだ履けそうもない。 それでもここまで辿り着けた。貴嶋から逃げ切れた。あとは近くのコンビニにでも駆け込んで電話を借りて警察に連絡すれば安全だ……そう思ったのも束の間。 街の喧騒に紛れて拍手の音が聞こえた。 『お疲れ様。美月』 顔を上げて愕然とする美月の目の前に貴嶋佑聖が立っている。貴嶋の隣には三浦の姿もあった。 「そんな……どうして……」 『なかなか見事な脱出劇だったよ。あそこで一階に降りずに駐車場から出るとは。考えたものだね』  寒さに震える美月の肩に貴嶋が着ていたジャケットがかけられた。身体が震えるのは寒さのせい? ……違う。 この震えは逃げ切れなかったことへの悔しさと怒りだ。 『さぁ、帰ろう。こんなところにいては風邪を引いてしまうよ』 貴嶋が差し出した手を払い除け、美月は彼を睨み付けた。 「私はあなたの人形じゃないっ!」 『無駄だよ。どんなに抵抗しても君はすでに私の手のひらの上』  美月の傍らに身を屈めた貴嶋は彼女の顎に手を添えて持ち上げた。寒さと怒りで震える美月の冷たい唇を貴嶋の親指がなぞる。 『永遠に私の籠に閉じ込めてその綺麗な瞳に私だけを映させる。君は私の側に居ればいい。不自由はさせないよ』 「勝手に私の人生を決めないで! あなたに囚われているこの状況が私には何よりも不自由なのよ!」 どれだけ責めの言葉を吐いても貴嶋は緩く笑うだけ。この男には敵わないと改めて思い知らされる。 『ああ……君は泣き顔も綺麗だね。そんなに泣かれると、もっと泣かせたくなってしまうなぁ』  溢れる涙を()き止めようとしても心に反して大粒の涙が美月の頬を流れ、貴嶋が笑いながら美月の涙を指ですくいとった。 貴嶋の後方に控える三浦は無表情に傍観しているだけだ。 「お姫様は捕まっちゃったのね」  ドレスの上に黒いコートを羽織った莉央が現れた。彼女は手にスリッパとコートを抱えている。 莉央は貴嶋と三浦を見た後に地面にしゃがむ美月と目を合わせた。 「ごめんなさい。キングはこういう人なのよ。欲しいと思ったものはどんな手段を使っても手に入れないと気が済まない、ワガママな子どもよね」 『子どもとは言ってくれるねぇ』 「そう? キングと一緒にいるとたまに大きな子どもを相手にしている気分になるのよ」 苦笑いする貴嶋を一瞥して微笑み、莉央は美月の前にホテルのスリッパを置いた。 「せっかくの綺麗な足を傷付けてはダメよ。それと、キングのジャケットじゃ落ち着かないでしょう? 私の物だけどしばらくこれを着ていてね」  肩に羽織っていた貴嶋のジャケットの代わりに襟と袖にファーがついたグレーのコートを着せられた。莉央に支えられて立ち上がり、用意してくれたスリッパを履く。 (三浦先生も莉央さんも結局は敵なんだ。優しくしてくれても逃がしてはくれない) 莉央が纏うローズの香りが着せられたコートからふわりと漂う。優美な彼女の香りが美月の心を複雑に掻き乱していた。
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