98人が本棚に入れています
本棚に追加
/93ページ
再び赤坂ロイヤルホテルの3003号室に逆戻り。暖房の効いた室内に入ると冷えた足元がじんわり暖まってくる。
ここまで美月を連れてきた莉央も一緒に部屋に入り、莉央はまず洗面所で濡れタオルを作ってくれた。
「汚れた部分はこれで拭いた方がいいわ」
「ありがとうございます」
「私は飲み物の用意をしてくるね。今度はちゃんと待ってるのよ?」
ふふっと微笑んで莉央はダイニングルームに向かった。
莉央が作ってくれた温かい濡れタオルを足の裏に当てる。本当はシャワーを浴びたいがそんな気力はない。足や手の汚れを拭き取るので精一杯だ。
リビングにいる美月には飲み物の用意をする莉央の後ろ姿が見えた。赤いロングドレスから覗く華奢な肩と背中、細くくびれた腰のライン、女性として完璧な莉央のプロポーションに羨望の溜息が出る。
(莉央さんって、隼人と似てる。綺麗でスタイルが良くてきっと頭も良い。見た目も中身も完璧って言うか……隼人はあれで完璧過ぎてはいないけど、でも二人はよく似てる)
莉央が貸してくれたグレーのコートを脱いで裏返しにして畳み、傍らに置く。パーティーで泣いてしまった時もハンカチを借りた。
莉央には物を借りてばかりだ。
非常階段で落としてきた片方のイヤリングはエステサロンの借り物だった。何階に落としてきたのか思い出せない。どうしたらいいだろう。
(変なの。こんなこと悠長に考えてるなんて……)
決死の脱出劇は失敗に終わり、身体も心もくだびれていた。何もかもどうにでもなれと投げやりな気持ちになってくる。
「お待たせ」
莉央が二つのカップを載せたトレーを運んで来た。カップの中身は白い液体、ホットミルクだ。
トレーにはチョコチップクッキーも一緒に載っていた。この部屋にクッキーの用意があったことを美月は初めて知った。
「何もお手伝いできなくてすみません」
「いいのよ。あなたが一番疲れているんだから。さ、飲んで」
ホットミルクは甘さの中にピリリとした辛さがあり、辛みが全身を巡って手足がポカポカと温かくなる。莉央が飲んでいる飲み物も同じ物だ。
「美味しい。これ、入っているのは生姜……ですか?」
「そうよ。ハニージンジャーホットミルク。これはね、私が初めてキングと出会った日に飲んだ飲み物なの」
「キングと出会った日?」
莉央は美月の斜め前に座っている。彼女はドレスから覗いた細い脚を組み、脚の上に両手を重ねた。
「キングと出会ったのは高校3年の夏だった。暑い夏の夜。家出して行き場のなかった私の前にキングが現れたの」
「それでカオスに?」
莉央は頷き、ホットミルクを一口飲む。
「莉央さんはどうしてキングの側にいるんですか?」
「キングは私の居場所なの」
心地良いソプラノの声が紡ぐ言葉のひとつひとつが謎を残す。どこに向かわせればいいかわからない様々な感情が美月の心に渦巻いた。
「貴女にとってはキングは悪人に見えるでしょうね。そんな男の側にいる私を理解できなくても無理ないわ」
「当たり前です。だってとんでもない極悪人じゃないですか。犯罪組織のトップで、親を殺して、他にも沢山の人を殺してる」
丸いチョコチップクッキーを品よくかじって莉央はまた微笑する。すべてを包み込む女神か天使のような神々しい微笑みだ。
「とんでもない極悪人か。確かにそうよね。実際あの人はとんでもない悪人よ」
「それなのに……キングが莉央さんの居場所なんですか?」
「そう。キングの隣にいることを私が選んだ。キングと出会わなければ私はとっくに死んでいたでしょう。だけどキングと出会わなければこの手で殺人を犯すこともなかった」
天井に向けてかざされた莉央の白い手。彼女の華奢な手で人が殺されていることが美月にらいまだ信じられなかった。
「でも出会わなければよかったとは思わない。キングは私の人生で必要な人だから」
「……愛しているんですか?」
「愛している。彼がとんでもない極悪人でもね。愛しているから側にいる」
当事者の二人にしかわからない感情がある。恋愛とはそういうもの。周りから見えているものとは違う、二人にしか見えないものがある。
だけど莉央の本心を聞けば聞くほど、謎が増える。モヤモヤとした感情が増幅する。
「じゃあどうして……隼人と……」
聞くつもりのなかった言葉が口から出ていた。隼人と莉央、どこか似ているこの二人には二人にしかわからないところで強く結び付いている気がしてならない。
その結び付きに嫉妬した。隼人の心に居続ける莉央の存在にどうしようもなく嫉妬している。
「会いたかったから。木村隼人……彼と一緒にいる時の私は自分の立場を忘れてただの寺沢莉央で居られた。それがとても心地よかったの」
莉央は美月の嫉妬の眼差しをやんわり受け止める。何もかもをわかった上で彼女は素直な言葉を吐露した。
「でも貴女が心配することは何もない。木村隼人は貴女を本気で愛している。それは信じてあげて」
優しい微笑みにつられて頷きそうになったが、この異常な状況を思い出して美月は我に返った。
「だけどこのままじゃ隼人にも会えません。もう一生会えないかもしれない」
項垂れる美月に莉央が言葉をかけることはない。莉央は二人分のカップを片付け、美月に貸したコートを持って3003号室を後にした。
最初のコメントを投稿しよう!