第一章 Audience

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 事務所のデスクで仕事を片付けていてもソワソワと落ち着かない。なぎさは腕時計を見た。まだ午後4時だ。 実家にはあと2時間後に行く予定になっている。 短い溜息をついてパソコンのキーから指を離した。来週までに仕上げなければいけないコラムを書いていても今日は思うように文章が書けない。  外の空気が吸いたくなった。早河が戻ってくるまでまだ時間がある。少し外を散歩してこよう。 この秋冬シーズンに購入したばかりのベージュのチェスターコートを羽織って早河探偵事務所を出た。  季節はすっかり冬。2009年もあとひと月で終わる。 四谷三丁目駅周辺の新宿通りは〈よつさんキラキラストリート〉と呼ばれるイルミネーション企画が今年から始まった。街路樹に施されたイルミネーションが街を彩っている。 (去年の冬にはまだイルミネーションはなかったなぁ)  家出した高山有紗を預かって有紗と一緒にこの道を歩いた1年前の12月のことをふと思い出した。同時にあの時に有紗と交わした会話も思い出す。  赤い太陽が少しずつ闇に侵食されていくこの時間は昼と夜が混ざり太陽と月が交差する。そうだ、あの時もちょうど日暮れの時間だった。 早河と兄の香道秋彦のこと、早河と自分の関係性を有紗に語った時、香道を死なせてしまったことで自分を責めている早河を見ているのが辛いとなぎさは漏らした。  ──“見てるのが辛いのにどうして一緒にいるの?”── あの時、有紗にそう聞かれた。1年前のなぎさには上手く答えられない質問だった。けれど今ならハッキリ答えられる。 「見ているのが辛いのに一緒にいるのは大切な人だから……なんだよね」  独り言を呟いた彼女は新宿通り沿いのある店の前で足を止めた。珈琲専門店Edenの店内は窓ガラス越しに見ても今日も繁盛していた。 カラン……と店の扉につけられた鈴の音が響いてEdenのエプロンをつけたアルバイトの女性店員が電飾やリースを手にして出てきた。 「香道さん! いらっしゃいませ」 常連客のなぎさを見て彼女は人懐こい笑みを向けた。 「こんにちは。それ、クリスマスの飾り?」 「はい。今日から12月なので。1年ってあっという間ですね。東京のクリスマスはどこもかしこもイルミネーションでキラキラしていてわくわくします。私の地元は田舎だからそんな煌びやかなものはどこにもなくって」  確か彼女はまだ大学1年生。今年の春に大学進学で上京してきたばかりだと接客の片手間の雑談で聞いた。 無邪気に嬉々とする彼女の笑顔がなぎさの心に翳りを差す。 珈琲専門店Edenは犯罪組織カオスのスコーピオン、田村克典が経営している店だ。田村の後ろにはもちろん貴嶋佑聖がいる。 つまりEdenは貴嶋の持ち物同然。働いているスタッフの中にはカオスのメンバーもいるはずだ。 上京して初めての東京のクリスマスを迎えることを楽しみにしている彼女もいつカオスに引き込まれるかわからない。もしかしたら無邪気な笑顔でなぎさに接している彼女はすでにカオスの…… (疑い出すとキリがない。本当ならこの子にはEdenのバイトを辞めて安全な場所で働いてほしい。……なんてこと言えないよね) 「マスターは今日はいる?」 「お休みです。最近お休みが多いんですよ。やっぱりマスターの淹れたコーヒーが飲みたいお客様が多いのでマスターがお休みの日は困っちゃいます」 彼女は眉を下げてエプロンの上から羽織ったカーディガンの腕をさすった。外で作業をするにはその服装では寒そうだ。 「そっか。マスターのコーヒーは飲めないけど少し居させてもらうね」 「はい。ごゆっくりどうぞー!」  彼女が開けてくれた扉からなぎさは店内に入った。Edenには寄る予定ではなかったがマスターの田村がいないのなら予定変更だ。 二階のカフェに上がって窓際の席に落ち着いた。田村がスコーピオンだと判明してからはこの店に足を運ぶ頻度は減った。せいぜい、コーヒー豆を購入する程度だ。 マスターではない他の店員が淹れたカフェモカを飲んで、なぎさは物思いに耽る。 (マスターの休みが多い……カオスの仕事? 何かを企んでいる?) これからどうなっていくのだろう。 この国も、自分も、早河も。 これから何が起きようとしているのか皆目わからない。カオスのことや早河との今後のこと、両親に早河との結婚を認めてもらえるのか……様々な不安が押し寄せる。 『香道さん?』  不安で心を埋めていたなぎさは自分の名前を呼ばれてもすぐには気付けなかった。 『おーい。香道さーん』 「……えっ」  二度目に名前を呼ばれてようやく顔を上げたなぎさを見て、隣の席の椅子に座る金子拓哉は苦笑いを浮かべていた。 突然現れた馴染みの編集者の金子に驚いたなぎさは両手で口元を押さえて身体を仰け反らせた。 「わっ……! 金子さんっ?」 『わっ……って、酷いなぁ。俺が名前呼んでも気付かずに、ずっとボーッとしてたよ?』 「ごめんなさい。考え事をしていて……。それにこんな所で金子さんに会うとは思わなくて」 『ははっ。いいよいいよ。取材で近くまで来たから四谷で話題のコーヒーを飲みに寄ったんだ。ここのコーヒー、グルメ雑誌でも人気高いから。評判通り美味しいね』 金子はなぎさと同じテーブルに移動する。テーブルに二つのコーヒーカップが並んだ。 『四谷だから香道さんに会えないかなーとは思ってたけどまさか本当に会えるとはね。でもなんだか思い詰めた顔していたね』 「思い詰めた顔……してました?」 『してたよ。眉間にシワ寄せた怖ーい顔』 金子は自分の眉間にシワを寄せて顔をしかめた。その表情が可笑しくてなぎさは微笑する。 『早河さんとはあれから順調?』 「はい。今夜、彼と一緒に私の実家に行くんです。父が彼に話があるから来てほしいと言って」 『へぇ。お父さんからのお呼びだしか。緊張するね』 「緊張しますし、父が彼にどんな感情を抱いているのかわからないから怖いです。付き合いを反対されるかもしれない」 『それは亡くなったお兄さんのことが関係してる?』  金子は以前に早河から、早河となぎさの過去の話は大方聞いている。なぎさは頷いた。 彼は唸り声を出して腕組みする。 『確かにご両親の立場で考えると複雑だろうね。どうしたって息子さんの死と早河さんを切り離すのは無理だと思うし』 「そうですよね。私も両親の気持ちはわかっているつもりです。私だって彼と兄の死を切り離せない。でも……彼と一緒に生きていきたい」 なぎさは左手の薬指に触れた。早河から贈られたエンゲージリングが左手の薬指に嵌まっている。 『早河さんと結婚するの?』 「はい。プロポーズされて、結婚を決めました」 『そっか。……あーあ。目の前で婚約指輪見ちゃうと実感沸いてやっぱり悔しいな。でもおめでとう。本当に良かった。俺は二人のこと応援してるよ』 「ありがとうございます」  金子の笑顔はとても温かくて彼の気持ちが伝わってくる。祝福してくれる人がいる、それが救いだった。  Edenの前で金子と別れたなぎさは早河探偵事務所に戻る道を歩く。日没時刻の過ぎた東京は闇の訪れと共に街は温かな灯りに色付いていた。  大丈夫。この世界はまだこんなに優しさに溢れている。 この世のすべてが敵のように思えても、この世のすべてが敵ではないと、まだ残っている優しさの光が教えてくれる。  だから大丈夫。 信じてくれる人を信じよう。 私は私の信じるものを、最後まで信じ続けよう。
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