第五章 Curtaincall

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 極彩色のネオンが灯る六本木。飲み屋の並ぶ路地の一角にぽっかり空いた空洞がある。 路地を歩いていた早河仁は空洞の前で立ち止まり、素早く穴の中に飛び込んだ。中には細長い階段が地下まで続いていて、彼は降りた先の金色の取っ手のついた扉を押し開けた。 早河には馴染み深い甘い花の香りが今夜も彼を出迎えてくれる。 「いらっしゃーい」  店内には紫のアイシャドウで目元を彩ったみき子ママだけがいた。今夜この店は臨時休業、客も従業員もいない。 みき子は早河が何も言わずとも彼にカードを渡した。 「ご新規さん、ものすごくいい男ねぇ。ジンちゃんの周りはいい男が揃っていてずるいわぁ」 『ずるいって言われてもなぁ。第一、あの人は結婚してるぞ』 「そんなの見ればわかるわよぉ。残念ね。いい男はみんな他の女のものになっちゃうんだもん」 50代の女装した男に、いい男が周りにいてずるいと言われても返答に困る。 今はニューハーフのみき子だが、三紀彦(みきひこ)としての戸籍上は婚姻歴があるバツイチなのだから人は見た目では過去はわからないものだ。  笑っていたみき子の顔が突として謹厳(きんげん)な表情に変わる。 「一輝ちゃんは無事だったようね。よかったわ。一輝ちゃんが狙われたって武田さんから聞いた時はこっちの心臓が止まるかと思ったわよぉ」 『これ以上、貴嶋の思い通りにはさせねぇよ。明日、すべての決着をつけてやる』  カードを手にした早河が店の奥に入っていった。彼の後ろ姿を見送ったみき子はカウンターの引き出しから封筒を取り出す。 封筒に書かれた差出人の名は寺沢美雪。犯罪組織カオスのクイーン、寺沢莉央の母親だ。 亡き友から送られた最後の手紙は娘への愛に溢れていた。 こんな形で美雪の娘の莉央の近状を知ることになるとは残酷なものだ。 「ねぇ、美雪ちゃん。これからどうなるのかしらね……」          *  店の奥の鉄扉の横にはカード差し込み口がある。早河はカードを差し入れ、テンキーに触れて暗証番号を打ち込むと扉のロックが解除された。 等間隔に扉が並ぶ薄暗い通路を進み、15のナンバープレートの扉に彼はまたカードを差し込んだ。鍵が開いた扉から室内に入るとパソコンを睨み付けていた阿部警視が顔を上げた。 『噂には聞いていたがさすがの設備だな。六本木にこんな場所があるとは思わなかった』 『タケさんのポケットマネーで作らせた秘密の地下室ですからね』  このビジネスルームは武田財務大臣が作らせた秘密基地のようなもの。一般客にはこの店はニューハーフのみき子が経営するキャバレーとしか思われていない。 華やかなキャバレーの奥に存在する秘密基地への招待状を手にできるのは武田と繋がりの深い政財界の一部の人間のみ。あの貴嶋でさえもこのビジネスルームの存在は知らないはずだ。  矢野がセキュリティシステムの強度を上げた阿部のパソコンの隣には君塚の自宅から見つけた例のフロッピーディスクがある。 『フロッピーのデータ、読み込めましたか?』 『かろうじてな。95年の古い型の物だったが警察庁の情報通信局のパソコンから読み込みができた。ディスクのデータはUSBに移行してある。これが1995年に辰巳佑吾が企てたドールハウスプランとやらの全貌だ』 煙草を持つ手とは反対の手で阿部がパソコン画面を早河に向けた。早河は画面に食い入る。緻密に書かれた文字を追うだけで頭が痛くなる内容に彼は溜息をついた。 『想像以上に胸糞悪りぃな……』 『だな。あの貴嶋の父親だけのことはある』 『警視、そこ褒めるとこじゃないですよ』  早河と阿部はやりきれない想いを抱えて顔を見合わせた。画面をスクロールするとある記述が目に留まる。 『これを読んで確信しました。親父を殺すこともプランの一部だったってことですね。親父に辰巳のアジトの情報を流した奴も辰巳の仲間だった』  14年前に早河の父、早河武志はある諜報機関から辰巳のアジトの情報提供を受けた。しかしその諜報機関が武志に与えた情報は辰巳が差し向けた罠だった事実が記述からわかる。 武志に罠を仕掛けた諜報機関を裏で仕切っていたボスの名前は最強の情報屋の異名を持つ犯罪組織カオスのラストクロウ。 貴嶋時代のカオスのラストクロウは佐藤瞬、ここに記載されたラストクロウは佐藤の前の代、辰巳時代のカオス幹部だ。 『早河元警部が辰巳の居所を突き止めることも彼がそこへ行くことも辰巳に仕組まれた計画だった』 『親父は辰巳の罠に嵌められて……辰巳ではなく貴嶋に殺された』  込み上げてくるこの感情の名前がわからない。怒り? 悔しさ? 父の正義を利用した辰巳への憎しみ、父の正義を果たせなかった悔しさと無念、父を殺した貴嶋への怒り。 (親父はどんな想いで死んでいったんだろう) 父親が殺されるに至る真相を知った早河を阿部が気遣う。 『大丈夫か?』 『頭はだいぶヒートしていますけど……怒りに任せて暴走したところで貴嶋には勝てません。大丈夫です』 そうは言っても怒りと同調する拳の震えは止まらなかった。 『14年前の辰巳の計画を貴嶋がなぞっているとすれば今回の奴の狙いが読めますね』 『まさにドールハウスなんだろう。悪趣味な計画だ』  阿部の携帯が着信を鳴らす。彼は席を立ち、早河に背を向けて電話に出た。 『俺だ。……何?』 不穏な響きの阿部の声を聞いた早河は後ろを振り返る。阿部が苦々しく舌打ちした。 『わかった。すぐに戻る。俺が行くまで警視庁の人間には手出しさせるなよ』 慌てた様子で通話を終わらせた阿部はコートを羽織りながら開口一番に早河に告げた。 『警視庁の留置場で林田が死んだ』 『林田が?』  今朝、矢野に瀕死の重症を負わせた警視庁警備部の林田刑事は警視庁に連行され取り調べを受けていた。 『警視庁に潜り込ませている部下からの情報では外傷はなく、おそらく毒殺……原が死んだ時と同じ手口だろう』 『不出来な人間を始末したんですね。手を回したのは笹本警視総監でしょう』 『笹本に命令を下している首謀者が貴嶋だな。とにかく俺は警視庁に向かう。警視庁は笹本の天下、このままでは何をしでかすかわからない。……これはお前に預けておく』 阿部は古びたフロッピーディスクとフロッピーのデータを移行したUSBメモリを早河の前に置く。早河は無言で頷いてそれらを懐にしまった。  二人でここを出ることは避け、警視庁に向かう阿部とは時間差で早河もビジネスルームを後にした。
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