第五章 Curtaincall

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 警視庁に到着した阿部は待機していた部下の塩屋(しおや)刑事を引き連れて警視庁内の留置場を訪れた。 『状況はどうなっている?』 『林田の死体は一課の人間に運び出されてしまいましたが現場は保存してあります』 警察庁の介入を警視庁の人間は快く思っていない。警視庁にいるほぼすべての刑事が阿部や塩屋に疎ましげな視線を向けていた。 『上野警部と小山刑事は?』  警視庁では阿部に唯一協力的な上野恭一郎と小山真紀の姿が見えない。 『二人とも別件の殺人事件の捜査で出ています。今日の昼に起きた事件なんですが、どうやら捜査の担当が上野警部の班に割り当てられたようで』 『早河と繋がりのある上野警部と小山を警視庁から遠ざけ、二人のいない隙に林田を始末したのか』 通路を歩いていた阿部が急に立ち止まる。彼は腹部を押さえた。先日退院したばかりで体がまだ本調子ではない。よろめいた阿部を塩屋が支えた。 『大丈夫ですか? まだ傷が……』 『平気だ。行くぞ』  留置場には他の事件の被疑者も拘留されている。就寝時間を迎えた留置場は暗く、被疑者達の寝息が個室の扉越しに聞こえた。 塩屋が留置場の一番手前の檻を指差す。 『林田が入っていたのはここです。死体発見時刻は20時……看守が林田の部屋から聞こえた呻き声と異臭に気付いて鍵を開けると中で林田が倒れていたんです』 『お前は林田の死体は見たのか?』 『はい。警視庁の人間にここから押し出される前に。死体の近くに吐瀉物がありました。異臭はそこから発生したものです』 塩屋の持つ懐中時計が床を照らす。鑑識が採取した後だがわずかに吐瀉物の痕跡が見えた。 『吐瀉物の中身は留置場で出た未消化の夕飯でした。そこから推察すると毒は夕飯の弁当に混入された可能性が高いかと』 『反応が食後すぐではないのなら遅効性の毒だろうな』  死体もなく鑑識が入った後の現場に長居は無用だ。二人は早々に留置場を去った。 留置場に面した通路で警視庁公安部の栗山警部補が待っていた。栗山も警視庁では数少ない阿部と協力関係にある刑事。 公安部の栗山には笹本警視総監の監視を指示していた。 『総監を訪ねて大阪府警本部長がお越しですよ。銀座で仲良く接待の真っ最中です』 『府警本部長……笹本と同期の安西(あんざい)警視監か』 『都内で事件が多発しているクソ忙しい非常事態に警視庁トップは同期と飲み歩いている。気楽なものですね』  狭い通路を阿部と栗山、二人の一歩後ろに控えて塩屋が用心深く歩く。 『矢野の見舞いに行ったらしいな。早河から聞いた』 『意識はまだ戻っていませんが……。矢野には俺と飲みに行く約束を守ってもらわないと困るので』 仏頂面で冗談めかしつつも矢野を心配する言葉を吐く栗山に素直じゃないなと阿部は呟いて笑った。  阿部も栗山もこれまでひとりで戦ってきた。信頼できる仲間や部下は確かにいる。しかし今は探偵となった早河や矢野とここまで協力と信頼関係で結ばれるようになるとは彼らも思いもしなかった。 『一課の堀井警部が早河が刑事を辞めたのを惜しいと言っていた意味がわかる気がする。早河が今でも刑事を続けていればこの腐った警察組織を内側から崩すことも容易にできた』 阿部の独り言に栗山も同意する。 『しかし刑事じゃないからこその組織から解放された身軽さが今の早河の強みでしょうね。あいつは警察に収まって大人しくしている奴じゃない』 『そうだな。俺も実際に早河の上司になれば扱いに困るだろう』 『早河を上手く扱えるのは上野警部くらいなものですよ』  その時、栗山の長い前髪の奥の瞳が鋭く光った。目の前に飛び込んできた拳を栗山が避ける。側にいた阿部と塩屋も軽い身のこなしで受け身をとった。 薄暗い蛍光灯の下に四人の男が待ち構えている。 『警視、下がっていてください。ここは自分が……』 『いや、これは俺の仕事だ』 盾になろうとした塩屋を制して阿部はひるまず前に出た。阿部は四人の中で一番体格のいい男を見据えた。 『警察庁の阿部だ。何か用か?』 『警察庁と公安がうちの庭を嗅ぎ回って目障りだと上が大層ご立腹なんだ』 『ね。お前達の言う上の人間が誰かは予想がついてる。上の人間の命令でお前らが林田を殺したんだな?』  林田の名を出すと四人のうち二人の視線が泳いだ。彼らも、用済みとなり始末された林田も阿部や栗山と同じ警察官。  子ども達はここにいる人間を全員、“お巡りさん”と呼ぶだろう。阿部の息子も阿部の仕事は“お巡りさん”だと思っている。 お巡りさんは正義の職業だと彼は息子に教えていた。そのお巡りさんが本当は人殺しだとしたら、きっと子ども達は何も信じられなくなってしまう。 国家の大義名分を掲げて人殺しをしたいがために刑事になった人間を阿部は知っている。その男と彼ら四人の姿が重なって見えた。 『お前達に命令を下している人間は笹本警視総監だろう?』 阿部は長い脚を一歩前に出した。堂々とした阿部の佇まいにたじろいだ四人は後ろに下がる。 『何が起きても笹本が守ってくれるとでも思っているのか? お前達も笹本も結局は貴嶋の捨て駒に過ぎない』 『知った口を叩くな。ここであんたが大人しく引き下がってくれたらそれでいい。俺達も無駄な殺生はしたくないんでね』  男は腰に下げていた特殊警棒を取り出して弄ぶ。警棒は使い方によっては命を奪う危険のある武器だ。 これが警察官の誇りも(こころざし)も捨て去った哀れな刑事の成れの果てかと思うと虫酸が走る。 『仲間を殺しているくせに何が無駄な殺生だ』  言葉を吐き捨てた阿部は栗山と塩屋に目配せして四人の男に攻撃を仕掛ける。乱闘による過剰な動きは腹部の傷に響くがやむを得ない。 阿部は振り下ろされる警棒を避けて男の背後に回り込み、隙をついて警棒を奪った。彼は急所を狙って一撃で相手の動きを封じる。 栗山と塩屋も男を取り押さえ、栗山が呼んだ公安部の刑事によって四人に手錠がかけられた。 『林田刑事を殺害した容疑でこいつらの身柄は警察庁に引き渡す』 『栗山さん、それは……』 『林田の殺害は警視庁上層部が関わっている。警察組織の規律を正す目的も含めてこの案件は警察庁への引き渡しが妥当だ』 栗山の決定に公安部の部下達は異を唱えようとしたが口を閉じて渋々引き下がる。 『後で係長にどやされますよ』 『別に慣れてる』  部下の小言にも栗山は涼しい顔だ。 公安部のやりとりの一部始終を見聞きしていた阿部も苦笑いしていた。
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