第五章 Curtaincall

4/20

98人が本棚に入れています
本棚に追加
/93ページ
 数時間前まで二十代女性の死体が横たわっていたフローリングの床の溝には乾いた血痕がこびりついている。ここは今日の午後に発生した殺人事件の現場であるマンションの一室。 被害者に飼われていたハムスターが小さな身体で回し車を回して遊んでいる。このハムスターに餌をやり、身体を撫でて可愛がってくれる飼い主はもういない。 これから誰がこのハムスターを育てていくのか小山真紀は気掛かりだった。  先ほど、栗山警部補から上野警部に連絡があった。林田刑事殺害容疑で四人の刑事を逮捕し、彼らの身柄は警察庁に引き渡されるらしい。 『四人の処罰は警察庁の判断に委ねることになった』 「刑事が刑事を殺したなんてやりきれません。それも警視総監命令で……」  人間に比べれば動物は無垢だ。野生の世界の弱肉強食の争いはあっても、動物は人間のように卑劣な行いはしない。 人間がこの世で最も醜い生き物に思えてくる。 「林田は一輝を殺そうとした奴です。絶対許せない。でもだから殺されていい理由にはなりません」  真紀は怒りで肩を震わせる。餌を食べ始めたハムスターが頬袋いっぱいに餌を詰めた顔を上げ、丸くて黒い小さな瞳で不思議そうに真紀を見つめていた。 真紀が住むマンションは犬猫は禁止だが小動物は飼える。隣の部屋の住人はカナリヤを飼っているし、フェレットを飼っている家もある。 もしもハムスターの引き取り先が見つからなかった場合は亡くなった被害者に代わってこの子を守っていきたい。  現場検証を終えて被害者宅を出る。夜の冷えた空気に真紀はコートの前を合わせて腕を抱き込んだ。 これから殺害された女性の元交際相手の男の事情聴取だ。上野と真紀の仕事は終わらない。 表に停めた車の中に身体を滑り込ませる。暖房をつけても車内はまだ寒かった。 「美月ちゃんの行方も気になりますね。携帯もまったく繋がらないし……」  行方不明となった美月に関する有力な手掛かりは得られていない。竹本邦夫射殺事件や別件の殺人事件の捜査に駆り出されているこの状況では美月の捜索まで手が回らず、歯がゆい思いだ。 『早河が言っていたが、美月ちゃんは貴嶋のお気に入りだそうだ』 「それは貴嶋が美月ちゃんに好意を持っているという意味ですか?」 『さぁな。文字通り、“気に入っている”のかもしれない。お気に入りと言うからには貴嶋が美月ちゃんを殺すことはない。……俺はそう思いたい』 おそらく今頃、犯罪組織カオスのキングの側にいるであろう美月の安否を思うと上野はどうしても最悪の事態を想像して気が滅入る。 「でも早河さんはどこでそんな情報を……」 『早河がどこから情報を入手したかは知らない。矢野かもしれない、別の情報源かもしれない。とにかく俺達が今やらなければならないことは目の前の捜査だ。そして明日に備えること。美月ちゃんのことも貴嶋やカオスのことも、明日ですべて終わらせる』 「本当に明日ですべて終わるんでしょうか……」  真紀の運転する車が警視庁に向けて夜の国道を走る。赤信号で停車した道の先では検問が行われていた。 『終わらせる。早河が必ず終わらせてくれる』 「早河さんのことは信じています。だけど不安なんです。2年前に貴嶋が早河さんを呼び出したあの日に香道先輩が亡くなった。縁起でもないと思いますが今回も同じことが起こるんじゃないかって怖くて……もう誰も失いたくないから」 真紀の想いは上野も同じ。 誰も失いたくない。二度と誰の命も奪わせない。  検問の警察官に警察手帳を見せる。敬礼する警官の横を通り過ぎて真紀の車は再び夜の国道を走り出した。 日付は12月10日の22時、寒くて長い冬の夜のプロローグは終わり、夜の第一章が間もなく始まる。
/93ページ

最初のコメントを投稿しよう!

98人が本棚に入れています
本棚に追加