第五章 Curtaincall

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12月11日(Fri)  目を覚ました浅丘美月は身体のだるさを感じて顔をしかめた。脚も重く、目眩も感じる。 ここは赤坂ロイヤルホテル3003号室のベッドの上。枕元のデジタル時計の表示は午前7時30分、この部屋で迎える二度目の朝だ。  のそのそとベッドから這い出て、脚のだるさを引きずって隣のリビングルームに向かった。リビングに漂うコーヒーの香りとそこにいる人物に今さら驚きはしない。 「……来てたんですか」 『おはよう』 ソファーに座る三浦英司が優雅にコーヒーを味わっていた。広げた新聞から顔を上げた彼は美月を一瞥する。 「おはようございます。先生ってほんっとにどこにでも現れますね。女の子が寝ている部屋に無断で侵入してコーヒー飲んでるなんてどんな神経しているんですか?」 『それだけ口が回るなら思っていたよりも元気そうだな』  三浦は美月の抗議の声を聞き流して新聞に視線を戻した。美月も今朝は三浦と舌戦(ぜっせん)する気分にはなれない。 溜息と目眩から額を押さえて彼女は洗面所に入った。歯磨きの準備をしている時に目に入った鏡に映る自分の顔に驚愕する。 「酷い顔。この顔のどこが、“元気そうだな”なのよ」  昨夜の美月は心身ともに疲れ果てていた。それなのになかなか寝付けず、眠れたのは深夜1時を過ぎてからだった。 寝不足と一連の出来事の疲労で目元にはクマが住み着いている。普段はめったに出来ない吹き出物が顎にひとつ出来ていた。 慣れないホテル生活の環境や食事の影響か、エステサロンでつけてもらったファンデーションが合わなかったのかもしれない。 (女ってめんどくさい……) 何かひとつでも日常から逸脱した出来事があると女の身体はたちまち拒否反応を見せる。面倒な生き物だ。吹き出物を見つけた朝は身支度を整えるのも投げやりな気持ちになる。  洗顔とスキンケアを済ませてリビングに戻ると三浦の姿はなく、リビングに面して設けられたバルコニーに大きな背中を見つけた。 美月は窓を開けてバルコニーの外に出た。朝の冷たい空気に触れて身を竦める彼女は三浦の横に並んだ。 「風邪引きますよ」 『君こそ風邪を引くから部屋に入っていなさい』  三浦の持つ煙草の煙が朝の風に乗って流れていた。 部屋に入れと言われても美月は従わなかった。三十階のバルコニーから見える東京の景色は絶景で、冬の空はどこまでも澄んだ青。 朝日を浴びてひんやりした空気を吸い込むと少し気分も晴れた。 『これ昨日落としただろ?』 三浦が美月の手のひらに花の形のイヤリングを落とした。これはエステサロンからの借り物だ。 「やっぱり階段で私を追いかけてきた人は三浦先生だったんですね」 『それが俺の仕事だ』 「そんな仕事、嫌になりませんか? 私みたいな子供の監視したり世話したり……」  くしゃみをした美月の肩に三浦が着ていたジャケットがかけられた。煙草の香りのするジャケットは彼の体温が残っていて温かい。 『確かに君の世話が一番楽じゃないな。寒いなら中に入っていればいいものを。世話が焼ける』 「世話が焼けるなら……焼かなきゃいいじゃない」  ふいっと顔をそらしてむくれる美月の可愛らしさに彼の身体が疼く。煙草を携帯灰皿に捨てた彼は自分のジャケットを羽織る美月を抱き寄せた。  抱き寄せられた胸元に美月は鼻先を擦り付ける。 この人はかつて愛した人とは違う人。そんなことわかっている。 でも何故こんなにもあの人と同じなの? 抱き締める手も温かい胸元も優しい瞳も、何もかもがあの人と同じ。だけどこの人とあの人は別の人間。 「これも仕事……? 私を慰めたり優しくするのも仕事だから?」  高層階に吹く風が美月の髪をなびかせる。彼は彼女の髪を撫でて偽りの答えを口にした。 『ああ、仕事だ』 言葉とは裏腹に抱き締める力が強くなった。顔を上げた美月と彼の視線が交ざり合う。 唇と唇が触れ合う寸前に彼の動きが止まり、歯止めが効かなくなる前に彼は美月を手離した。 抑えきれない愛を隠すのも限界が近い。 「思わせ振りなことばっかりするんですね」 『期待したか?』 「別に……」 『くだらないことを考えてないで早く部屋に入りなさい。君に風邪を引かれると困る』  本音はそのままキスをされるかと思った。そうなってもいいと美月は思った。 キスをして欲しかった。自分が三浦に片想いしているみたいで悔しくなった。 美月は無言で部屋に戻る。一緒に入ってきた三浦が後ろで窓を閉めていた。 『今日は他の仕事があるからもうここには来れない』 「そうですか。他の仕事もあって忙しいのに私の世話もあって大変ですね。……着替えてきます」  ジャケットを彼に突っ返してベッドルームに逃げ込んだ。パジャマのボタンを外す手が震えていた。  会いたい人には二度と会えなくて、会いたい人に似た男が現れた。顔も口調も性格もまるで似ていない二人の男が重なり合ってひとつになる。 あと少しで、その男とキスをしてしまいそうになった。 「佐藤さんのことを考えてどれだけ泣けば気が済むんだろうね」 会いたい人には二度と会えず、恋しい恋人にもここから出なければ一生会えない。  涙に滲む瞳でベッドルームとリビングルームを隔てる扉を見つめた。閉じられた扉の先にはまだ三浦がいる。 もしかしたら三浦とこれっきり会えなくなりそうな、曖昧な予感と胸騒ぎで心が落ち着かない。 「今日……何があるの?」 美月がわかることは今日は貴嶋佑聖の誕生日。それだけだ。貴嶋が何歳になるのかそういえば聞き忘れていた。 これだけ顔を合わせているのに美月は貴嶋の正確な年齢を知らないままだ。  今日も高級ブランドの服に袖を通す。上質なニットは着心地は良くても貴嶋の着せ替え人形にされている感覚は拭えない。  着替えた美月はベッドルームを出た。 知らない間にダイニングテーブルに並べられた朝食の用意の風景に三浦英司が溶け込んでいる。彼は先ほど読んでいた新聞をまた広げて席についていた。 家族でも恋人でも友達でもない男との二人きりの朝食も今日が最後になるのではないか……。こちらと目を合わせない三浦の顔を盗み見して、彼女はメープルシロップの甘い香りが漂うふかふかのフレンチトーストにナイフを入れた。
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