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真紀は三十階でエレベーターを降りて通路を進む。周囲に人気はなく、通路に並ぶ扉はすべて閉ざされていた。
3003号室のカード差し込み口にスパイダーから渡されたカードキーを挿入する。半信半疑だったがカードキーは偽物ではなかった。
ロックの解除音がしてノブに触れると扉が動く手応えがある。
扉を開いて3003号室に足を踏み入れた彼女はまず豪奢な部屋の内装に目を見張った。広々とした室内にはシャンデリアが吊るされ、毛足の長いカーペットに大きなソファー、ホテルと言えばビジネスホテルのシングルルームのイメージしかない真紀にはこの部屋のスケールは想像を絶していた。
ソファーの上で本を読んでいた少女が顔を上げた。間違いない。浅丘美月だ。
「美月ちゃん!」
「小山さん……? え? なんで……」
「大丈夫? どこも怪我はない?」
驚く美月の側に駆け寄った真紀は美月の顔色や身体の異常をざっと確かめた。身体には拘束された形跡はなく、目の下には多少クマが見られるものの、美月は至って健康的な顔色をしていた。
「怪我はないです。それよりどうやって入って来たんですか? 鍵は……」
「この部屋にあなたがいるからってカードキーを渡されたの」
手にしたカードキーを美月に差し出す。真紀からカードキーを受け取った美月は茫然とそれを眺めて呟いた。
「これを誰から……?」
「さっき逮捕した男よ。その男はカオスの幹部なんだけど、あなたがこの部屋にいることを教えてくれて」
「逮捕……? あの、逮捕した人って眼鏡をかけた男の人ですか?」
美月の顔から血の気が引く様が真紀には不可解だった。彼女はカードキーを胸の前に抱えて何かを必死で祈るような仕草をしている。
「美月ちゃんもしかしてこの男知ってる?」
真紀は自分の携帯電話の画面を美月に向けた。アナログ写真を携帯のカメラで撮ったもので、画面には先ほど逮捕したスパイダーの大学時代の顔写真が映っている。
「逮捕した人ってこの人……?」
「そうよ。これは9年前の写真なんだけどそこまで顔は変わっていないの。知ってる人?」
真紀に3003号室のカードキーを渡した男を三浦英司だと思い込んでいた美月は、画面に映る男を見て首を横に振った。
この写真の男も眼鏡をかけているが三浦ではない。逮捕されたのが三浦ではないと知って美月は困惑する反面、安堵していた。
「とにかくここを出ましょう。ご両親や皆があなたを心配してる」
真紀に促されて身支度を始める美月は三浦の存在を真紀に話すべきか否か思案する。三浦はカオスの人間、彼は自分は人殺しだと言っていた。
何を迷っている? 捜査の手が三浦に及ぶのを恐れている?
3年前の自分はどうしていた?
恋心を抱いた佐藤瞬が一連の連続殺人の犯人だと確信した時は上野警部にそのことを打ち明けられた。
3年前にできたことがどうして今はできない?
荷物をまとめている最中にバッグの中身を見てハッとした。貴嶋に奪われた携帯電話がバッグに入っている。
バッグの中は昨夜以降見ていない。昨夜は携帯は入っていなかった。
いつの間にか手元に帰って来た携帯を握り締める。携帯をバッグに入れることができた人間は今朝この部屋を訪れた三浦以外は考えられない。
敵か味方か、最後まで真意の読めない男だ。
「どうしたの?」
「携帯が戻っているんです。ここに連れて来られる前にキングに盗られて……でも今バッグの中を見たら入っていて……」
美月の手のひらに収まる二つ折りの携帯電話。真紀はそのショッキングピンク色の携帯を持ち上げた。大きなファーのストラップが左右に揺れる。
「この部屋に誰か来た?」
「キングの側近の男の人が何度か来ました。ここで一緒にご飯食べたりして、きっと私の世話係みたいなものだったんだと思います」
「じゃあその男が携帯を美月ちゃんに返したのかな」
「多分……。その人は小山さんに逮捕された人とは違う人です」
美月の携帯を眺めて彼女は考え込む。貴嶋の側近が美月に携帯を返した理由はどれだけ考えを巡らせても迷宮のままだ。
「ごめんね。携帯が戻ってきたばかりで悪いけど、念のため指紋を取るからこの携帯、預からせてもらえないかな? ご両親への連絡は私の携帯からしていいから」
「……わかりました」
美月の携帯は真紀に渡り、真紀は上野警部に美月保護の報告の電話をしている。
報告を終えた真紀と共に美月は3003号室の外に出た。軟禁されている間は何度試みても内側からは開かなかった開かずの扉は簡単に開き、また静かに閉ざされる。
二度とこの部屋に来ることはないと思った途端に生まれた寂しさにも似た感情に足を止めて振り返った。
あの人はどこの誰で何者だった?
あの人は本当にここに居た?
あの人は今どこに居る?
そもそもあの人は実在したの?
三浦英司は手を伸ばしても掴めない幻のような存在だった。佐藤瞬の幻はもういない。
3年前の真夏の白昼夢と同じ、夢のような現実の3日間に美月は別れを告げた。
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