第一章 Audience

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あなたからは私達の姿がどう映っていますか? 私達はどんな風に見えていますか?         *  早河は香道家の仏間で手を合わせていた。合わせた手をほどいた彼は香道秋彦の遺影に向けて頭を下げた。 『熱心に何かを念じておられましたね』 畳を踏む足音と共に香道正宗の声が聞こえた。早河は仏間の座布団から身体を退けた。正座をしたまま正宗に一礼する。 『秋彦さんにご報告とお許しを貰っていました』 『ほう。報告と許しとは?』 『なぎささんとの結婚の報告とその許しです』 正宗は仏間の畳の上に座って早河と向かい合う。彼は早河の答えを予期していたのか顔色を変えない。 『やはりそうでしたか。二人がいつかはそうなるのではないかと薄々予感はしていました。なぎさの薬指に指輪がありましたね』 『ご報告が遅くなってしまい申し訳ありません。彼女とはお付き合いを始めたばかりですが、先日プロポーズをして快諾の返事を貰いました』  早河はもう一度、正宗に頭を下げた。 『お父様から秋彦さんを奪った僕になぎささんを愛する資格がないことは承知しています。ですが僕はなぎささんを愛しています。お願いします。彼女との結婚を認めていただけませんか?』 正宗はしばらく黙っていた。頭を下げる早河の広い背中を彼は見下ろす。 『……あなたにお渡ししたい物があります』  正宗が発した言葉は早河の懇願に対する答えではなかった。彼は身体の後ろに控えていた小さな箱を早河の前に差し出した。 『今夜あなたをお呼びしたのはこれを渡す為です。それとこちらも』 今度は封筒を手渡した。両手で封筒を受け取った早河は封筒の両面を見た。封筒は横長の洋封筒。 宛名は大学教授である正宗の大学の研究室の住所と香道正宗宛になっている。 『私の研究室にこの手紙と小包が送られてきました』 『差出人の名前がありませんね』 『手紙を読めば差出人が誰かわかります』 『拝見してもよろしいですか?』 『どうぞ。宛名は私になっていますが、中身の半分はあなた宛だと私は解釈しましたよ』  正宗の了承を得て早河は封筒から便箋を取り出して内容に目を走らせた。早河が手紙を読んでいる間も正宗は彼から目を反らさずに早河の表情を観察している。 『香道さんはこの手紙をお読みになってどう判断されましたか?』 『そうだね……。どう判断すればよいのかわからないと言うのが正直なところでしょう。何故、私のもとにこんな物が来たのかもわからない』 正宗は早河の前に置いた小箱の蓋を開ける。箱の中には青色のUSBメモリが白色のペーパークッションに埋もれていた。 『おそらく、差出人が香道さんの所が安全だと判断したのだと思います』 『安全?』 『はい。手紙の内容からもそれが窺えます。僕宛でもありますが、紛れもなくこの手紙は香道さん宛です。こちらはお返しします』  読み終えた便箋を封筒に戻して正宗に返した。正宗は口を真一文字に結んで腕を組む。 『よくはわからないが、そのUSBをあなたに渡すことが私の役目のようなのでね』 『確かに受け取りました。中身はご覧には……』 『見ていませんよ。私が見るべきものでもないと思う』 早河はペーパークッションに埋もれたUSBを手にした。 『そうですね……。香道さんはご覧にならない方がいいです。見て気分の良いものではありませんから』 『USBの中身を知っている口振りだね』 『大方の見当はついています』  手にした青色のUSBメモリを箱に戻して蓋を閉めた。阿部警視に届いたUSBと合わせてこれで三本目だ。 『先ほどのなぎさとの結婚の申し出についてですが……』 『はい』  早河は居住まいを正して正宗を見据える。こめかみを押さえて溜息をつく姿に娘を持つ父親の複雑な心境が見てとれた。 『あなたがこれから何をしようとしているのか私には想像もできないが、何があってもなぎさを残して死ぬことがないと約束できますか?』 『それは……お約束はできません』 きっぱりとした早河の口調に正宗の眉が上がる。 『何故?』 『それだけ僕がこれから行う事には死を伴う可能性が高いからです。死ぬことがない保障はどこにもありません』 『死を伴う可能性とはなぎさもですか? この前のように、なぎさが危険な目に遭うこともあると……』 『なぎささんは僕が命を懸けて守ります。しかし絶対になぎささんに危険が及ばないとは言い切れません。彼女も覚悟の上です』  確固たる意思を感じる瞳を正宗は直視する。正宗が初めて早河と会った場所は息子の秋彦の遺体が安置された霊安室の中だった。 その時の早河はこの世のすべてを拒絶するような冷めた暗い瞳をしていた。早河が刑事を辞めて探偵になると聞いた時もこんな男に何ができるのかと当時は思っていたものだ。  そろそろ彼を許す時なのかもしれない。 許す? ……違う。初めから憎んでなどいなかった。 ただ息子を失った行き場のない悲しみと怒りを彼にぶつけていただけだ。 娘までが彼のもとに行ってしまったことでプライドが邪魔をして頑なに彼を拒み続けていた。 『あなたもなぎさも覚悟の上でのこと……なのですね』 あの冷めた暗い瞳の彼はもういない。それがこの2年間の真実だ。 『早河さん。あなたは命の保障はできないと言った。ですが、約束してください。何があろうとも必ず生きて私達の所に帰ってきてください』  畳に手をついて正宗は頭を下げた。突然のことで戸惑う早河に正宗は言葉を続ける。 『あなたの命はあなただけのものではない。あなたの命は私の息子、秋彦が最期に守った命です。死ぬ覚悟があったとしてもあなたが死ぬことを私は許しません。私にとってはあなたの命の半分は秋彦の命のようなものなのです』 正宗の気持ちを受け取った早河は涙ぐむ瞳を押さえた。正宗が顔を上げる。 『なぎさを頼みます』  息子と娘を愛する父親から託された想いを抱えて、早河は『はい』と頷き返した。
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