第六章 Runway

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 浅丘結恵は娘の美月と面差しがよく似ている。 結恵の旧姓は沖田。美月と佐藤が出会った静岡のペンションオーナーの沖田幸次郎の姉だ。 「あなたは亡くなったと聞いていましたから、お電話をいただいた時は驚きました」  結恵はまじまじと佐藤を見つめる。今の佐藤は三浦英司の変装ではなく佐藤瞬の素顔だ。 娘が愛した男を目の前にして彼女は何を思う? 『こちらこそご足労いただいて恐縮です。ご近所の目もありますし、浅丘さんのご自宅から離れている方がよろしいのではと思いまして』 「お気遣い感謝します。そうね……あなたとお会いしているところをご近所さんや、ましてや美月に見つかっては困りますものね」 結恵はガラス張りの窓から差し込む光に目を細める。彼女の立ち振舞いのひとつひとつに品の良さが滲み出ていた。 「せっかく緑の多い場所に来たんです。少し外を散歩しながらお話しませんか?」  結恵の提案を佐藤は承諾し、二人は休憩所を出た。園内の中央に位置する傾斜地の小道を並んで歩く。 風は冷たいが太陽の光が暖かい。 「どうして私に連絡を?」 『美月さんの母親がどのような方か、お会いしてみたくなったんです』 平日の午後の公園には結恵と佐藤以外の人の姿はなく、散歩中の老婦人とすれ違っただけで他に人の気配はない。 「最初は悪戯(イタズラ)ではないかと疑いました。3年前に亡くなった娘の恋人から電話がかかってくるなんて思いもしなくて」 『当然です。私も会っていただけないかもしれないと思っていました』 「正直に言えばお会いするのは迷いました。あなたが生きていることを受け止められませんでしたし、私ひとりでお会いするのも怖かった」  そう言って視線を下げる結恵の横顔もやはり美月そっくりだ。 周囲を取り囲む木々の葉が風に揺れる。園内は穏やかな時間が流れていた。 『でもあなたは来て下さいましたね』 「佐藤さんと同じです。私も娘が愛した人に会ってみたかった。写真ではあなたのお顔は拝見していたのですけれど」 『写真?』 「静岡で……美月とあなたが海で撮った写真です。美月が見せてくれました」 海で美月と撮った写真を彼女の母親に見られていた事実に佐藤は照れ臭くなった。照れ臭く、気恥ずかしいものだ。 『美月さんとは17歳も歳が離れています。ご両親からすればいい歳した男が若い女の子相手に何をやっているんだと思われたでしょうね』 「主人は父親としては複雑な気持ちみたいでしたよ。だけど私は美月があなたを好きになった気持ちは理解できます。それも今日、ハッキリとわかりました」 『今日ですか?』  階段を上がった場所に広場とベンチがある。息が上がった呼吸を整えて二人はベンチに腰かけた。 マフラーの結びを直して結恵は深呼吸をする。 「昔話を聞いていただけます?」 『ええ、いくらでも』 「21年前になりますね。美月がお腹にいることがわかったばかりの頃の話です。故郷に帰省していた私は中学の同級生だった男の子と再会しました。本当に偶然、まさか会えるとは思っていなかった彼と……会ってしまった」 彼女の言葉の端々に隠れた感情に佐藤は気付く。知らないフリを通すのが正解なのか佐藤が迷っていると結恵が微笑した。 「お察しかもしれませんが、その人は私が中学の時に好きだった人です。恋人ではありませんでしたが初恋の人でした。でも幸せな再会ではなかったの。彼は恋人を殺して逃げている最中でした」  甘酸っぱい恋物語かと思えば予想外の展開に佐藤は言葉もなく、結恵の話に耳を傾ける。彼女は話を続けた。 「お互いに中学の時に好き同士で両想いだったことがわかっても私達には遅すぎた。人を殺した彼は私にこのまま二人でどこか遠くに行こうと言ったんです。私はその時にはもう結婚してお腹には美月がいた。主人のことは愛しています。だけど初恋の彼のことはいつまでもずっと好きなままでした」 コートに覆われた下腹部に結恵の両手が添えられる。21年前にそこに宿った小さな命が美月だと思うと佐藤は不思議な心地がした。 『それからどうされたんですか?』 「彼と一緒にいたいと思いました。離れたくなかった。でもお腹には美月がいる……私は美月を守りたかった。主人を裏切りたくもない。彼と一緒に逃げる選択肢は私にはなかったの」 強い意志の目が佐藤に向く。その瞳は美月と同じ、真っ直ぐで汚れのない綺麗な瞳だった。 「彼が殺してしまった恋人は妊娠していました。ただお腹の子が彼の子かはわからなくて、それが原因で彼女を……。彼は恋人を愛していました。だから浮気をした彼女を許せなかったんです」  結恵は空を仰いで21年前の出来事を思い出した。夕焼け色に染まる海岸で打ち明けられた悲しい告白。 波の音に混ざってすすり泣くあの人の声が今も耳に残っている。 「それまで逃げていた彼が自首を決意したきっかけは私のお腹にいた美月の存在でした。彼女のお腹にいた赤ちゃんはもしかしたら自分の子だったのかもしれない、でも誰の子どもでも関係ない、自分は二人の命を奪ってしまったんだと言って私のお腹を撫でながら彼は泣いていました」 (※短編【Dearest】より)  21年前の出来事を語り終えた彼女はバッグから写真を取り出して佐藤に見せた。ピンク色のセーターを着た少女が笑顔でピースサインをしている。 『これは?』 「6歳の美月です。この頃からあまり変わっていないでしょう?」 期せずして6歳の美月と対面した佐藤は柔らかく微笑んだ。結恵の言う通り、この頃から美月の顔立ちは変わらない。可愛らしい笑顔も今の美月と同じだ。 『可愛いですね』 「幼稚園を卒園してすぐ、小学校の入学前に静岡の私の実家に帰った時の写真です。桜が綺麗な暖かい日だった。この日に美月は彼と会っているの」 写真に写る美月の姿を結恵の白い指が優しく撫でる。 『彼ってさっきの話の?』 「はい。私が帰省中に不思議な偶然が二度も重なってまた彼と会えた。きっとあの時には刑期を終えていたのね。私の実家近くの公園の桜の木の下に彼がいました。3年前の事件の後に美月がよく言っていました。“桜の木の下のおじさんの夢を見た”って」  結恵と美月に残るピンク色の優しい記憶。ひらひらひらひら桜舞う中で幼い娘とあの人は運命的に出会った。 『桜の木の下のおじさん……その彼のことですか?』 「美月が彼に付けた名前です。もちろんあの時お腹にいた美月は彼のことは知りませんし私も話していなかったの。あの日、偶然公園で会っただけの知らないおじさんだと美月は思っています。それまで彼のことはすっかり忘れていたあの子が3年前に突然、桜の木の下のおじさんの事を思い出した。6歳の頃の断片的な記憶しかなくてもまだ覚えていたのね」
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