第六章 Runway

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 結恵と佐藤はベンチを離れて坂道を行く。静かな園内に鳥のさえずりが聴こえた。 「どうして美月が3年前に、桜の木の下のおじさんの夢を見たのか不思議でした。だけどあの子が言っていたんです。桜の木の下のおじさんは哀しい目をして優しく笑う人だった……そして佐藤さん、あなたも哀しい目をして優しく笑う人だったと。確かに彼とあなたは雰囲気が少し似ていますね」 『哀しい目をして優しく笑う人か……』 3年前の自分は美月からそのように見えていたと知り、改めて美月の勘の良さに驚かされる。あの頃の佐藤の誰にも悟られずに内に秘めていた嘆きに美月は気付いていた。 「どんな理由があっても人を殺すことはいけないことです」 『……はい』  園内の滝の前で二人は歩を止めた。滝は下の池に向けて水音を立てて流れ落ちる。 「3年前の事件の後、あなたがいなくなったことで美月は心を壊しました。食べても吐いてしまうことが多く、眠れない日も続いてやっと眠れても怖い夢を見て夜中に起きてしまう。専門用語ではASDと呼ばれる症状だったそうです」 『ASD……急性ストレス障害ですね。申し訳ありません』 何よりも守りたかった彼女の笑顔を壊してしまったことへの懺悔と後悔が佐藤に押し寄せた。 「あの頃の笑顔が消えてしまった美月を見ているのは辛かった。私や主人ではどうすることもできなくて自分の無力さを痛感しました。娘が苦しんでいる時に親は何もしてやれない。そんな美月と私達を救ってくれたのは隼人くんでした。隼人くんが親身になって美月を支えてくれて、少しずつあの子に笑顔が戻ってきた。ホッとしました」 木村隼人の存在は美月にとってかけがえのないものになっている。だからこそ隼人の命も守りたかった。 「あなたに美月を愛するなとも、忘れろとも言いません。私が口出しすることではありませんから」 『警察に私のことはお話にならなかったんですか?』 「私が警察に通報してここに刑事さんを連れて来ていればどうしていました?」  結恵に問われて彼は滝壺に視線を落とす。流れ着いた先がこの世の果てだったとしてもそれが自然の定めだ。 『それならそれで構わないと思ってご連絡しました。逮捕されるならそれでもいいと覚悟してのことでした』 「そう……。だけど警察に話してしまえば、どうしたってあなたが生きていることを美月に知られてしまいます。私はまだ、あなたが生きていることを美月に知られたくないの。もしも、佐藤さんが美月の幸せを壊さないと約束していただけるのなら、今後もあなたのことは警察にも誰にも話さないまま私の胸の内にだけ留めておきます」 『美月さんの幸せを壊すつもりはありません。私は今でも美月さんを愛しています。だから彼女にはずっと笑っていてほしいと思っています』 結恵は困った顔で眉を下げて苦笑いした。 「不思議ね。あなた、どうしてそこまで美月を愛したの? あなたから見ればあの子はまだまだ子どもでしょう?」 『自分でもよくわかりません。でも真っ直ぐで純粋で感情が豊かで……気付いた時には美月さんのそんなところに惹かれていました』  滝を離れてまた小道を行く。小川から流れるせせらぎの音、覆い繁る葉、冷たい北風と太陽。こんなにのんびりと自然の中に身を置く時間も佐藤には久しぶりだった。 「きっと私の知らない美月をあなたは知っているのでしょうね。寂しい気持ちはありますがそれを親が知ることはできない」 『親から見える子どもの部分と他人から見えている部分は違いますからね。成長するに従って子どもは親の知らない一面を持つようになります』 「そうですね。……だけど美月はまだ完全な大人ではありません」 小道の途中で彼女は立ち止まり、佐藤を見上げた。 「今はあなたが生きていることをあの子に隠していたい。だけどいつか美月がちゃんと大人になった時に。あなたが現れても自分の意志を保っていられるようになるまで……それまではお願いします。美月の前には現れないでください」  深く頭を下げた結恵の姿から娘を想う母親の気持ちがひしひしと伝わる。 『頭を上げてください。ご心配には及びません。私が美月さんの前に現れるようなことはありません。お約束します』 「……ありがとう。勝手を言ってごめんなさい。本音は母親として、あなたの生存を美月に話すべきか迷っているの。あの子は本気であなたを愛していました。だからこそ、私はあの子に酷いことをしているんじゃないかって……」 『いえ、お話にならない方が美月さんの為です』  公園を一周してきたようだ。広場や原っぱに囲まれた小道を歩くと最初に佐藤と結恵が待ち合わせたログハウス風の休憩所が見えてきた。 『私からもひとつ伺ってよろしいでしょうか?』 「何ですか?」 『桜の木の下のおじさん……初恋の彼のことをあなたは今でも……』 結恵は首を傾けて美月と同じ愛らしい笑顔を向けた。 「彼は私の心の一番奥にずっといますよ。心の奥の引き出しに鍵をかけて大切に仕舞っています」  佐藤と別れた彼女が公園を出ていく。佐藤はまた休憩所のベンチに戻って美月の母親との面会を振り返った。 『やっぱり母親だな……』 タイミングを見計らったように携帯電話が着信する。着信表示に顔をしかめて佐藤は電話に出た。 『はい。……ええ、俺の役目は終えました。今月中にはあちらに帰ります』
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