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正門から少し離れた場所に車を停めて真愛が出てくるのを待つ。
早河は車外に出た。寒風の吹く午後の青空が穏やかにこちらを見下ろしていた。
月曜日の切り裂きジャックが出没してからは真愛が通う東中野小学校も月曜日のみ、教員やPTA役員が付き添って集団下校が行われている。月曜日以外の曜日でもPTAや自治体の役員が通学路に立って生徒の安全を見守っていた。
「佐竹先生、さようならー」
集団下校で帰宅する女子生徒が正門前で見送る女性教員に手を振った。女性も笑顔で手を振り返している。
あの女性は真愛が一年生の時に担任を務めていた佐竹明美教諭だ。
佐竹明美は早河に気付いて彼に会釈した。早河も会釈を返す。下校する生徒の列が途切れたところで佐竹教諭が早河に歩み寄った。
「こんにちは。真愛ちゃんのお迎えですか?」
『ええ。カウンセリングの日なので』
早河は近付く明美からわずかに身体を一歩後ろに引いた。相手と距離をとりたくても駐車した車から離れられず、これが精一杯だ。
「真愛ちゃん、最近は落ち着いているみたいですね。学校でも元気いっぱいな姿をよく見かけますよ」
『先生方の助けがあってこそです。佐竹先生や今の担任の若林先生には真愛のことで親身になっていただいて、感謝しています』
真愛が誘拐された当時の担任だった明美とはPTSDを抱える真愛の今後の学校生活について話し合いを重ね、彼女は二年生になった真愛の新しい担任の若林教諭に真愛の症状や対処法を事細かに説明して引き継ぎをしてくれた。
今の真愛の平穏な学校生活があるのも明美の尽力のおかげだ。
集団下校の生徒達の賑やかな声も遠ざかり、正門前には早河と明美だけが立ち尽くしている。
「お子さん産まれたんですね。おめでとうございます」
『ありがとうございます。真愛がさっそく話しましたか?』
「……はい。弟が産まれたよって嬉しそうにお話ししてくれました」
彼女は眼鏡のフレームに触れて早河から顔をそむけた。明美の容姿はショートカットの黒髪に赤いフレームの眼鏡がトレードマークだ。
早河は佐竹明美が苦手だった。
父子家庭でもない限り、父親が子どもの担任教師と接触する機会は少ない。家庭訪問や三者面談で教師と接する役割はほとんどが母親だ。
早河も1月に誘拐事件が起きる前までは明美と顔を合わせたこともなかった。
誘拐事件後の2月に真愛のPTSDの件で学校を訪れて初めて明美と対面した。明美に苦手意識を感じるようになったのはそれからだ。
彼女から向けられる眼差しが少々熱っぽい気がしてならない。
まさかとは思うが、担任教師が教え子の父親の40歳の男に恋愛感情を抱くなどあり得ない……と思ってはいるのだが、今も眼鏡の奥からチラチラとこちらを盗み見る視線に早河は居心地の悪さを感じている。
「パパー!」
ピンク色のランドセルを背負った真愛が正門を飛び出して来た。明美との沈黙の空気に耐えられなくなっていた早河は真愛の登場で救われた。
抱き付く真愛を両手で抱き留める。待っている間に下校する女子生徒を何人も見たが、我が子が一番可愛いと思ってしまうのは親バカ故だ。
「ただいまっ!」
『おかえり。ちょっと遅かったな』
「ごめんなさい。うさぎ小屋に行ってうさぎさんのお世話してたんだ。パパは……さたけ先生とお話ししてたの?」
真愛は早河の隣に佇む明美を見上げた。早河は曖昧に頷く。
『ああ、うん。先生が門まで見送りに来ていたから少し話をしていたんだ。では先生、また』
「はい。お気をつけて」
明美は早河の車の前から退いて正門の入り口まで下がった。真愛も「先生さようなら」と言って明美に手を振り、助手席に乗り込む。
明美の視線に見送られて真愛を乗せた車が発進した。彼女の熱っぽい視線は最後まで変わらなかった。
途中に寄ったコンビニで缶コーヒーと真愛用のココアとお菓子を買い、なぎさと息子の待つ産婦人科までしばしのドライブ。
「真愛、さたけ先生のことあんまり好きじゃない」
助手席の真愛はストローを差した紙パックのココアを小さな手で抱えている。早河は真愛の意外な言葉に驚いた。
『一年生の時は佐竹先生のこと好きだっただろ』
「一年生の時は好きだったけど今は好きじゃないの」
真愛は拗ねた表情で口を尖らせ、尖らせた口元でいちごポッキーをかじった。
このくらいの年頃の女の子は些細な出来事で好き嫌いが変わる。しかし一年生の時に好きだった担任教師を一年後に嫌いになるものか?
「だって、さたけ先生はパパが好きだから」
真愛の次の一言は早河を放心させるだけの威力があった。
『パパが好きって……佐竹先生が?』
「うん」
『真愛、嘘はついちゃダメだって言ったよね?』
「嘘じゃないもんっ。さたけ先生はね、パパが好きなんだよ」
風船のように両方の頬を膨らませた真愛が運転席に手を伸ばして早河のスーツの裾を引っ張った。
『どうして佐竹先生がパパを好きだって思うんだ?』
「そんなの、“おんなのかん”に決まってるでしょっ!」
ココアを勢いよく飲み、いちご味のポッキーを頬張る真愛は事も無げに言った。小学二年生で女の勘を語る真愛はやはり末恐ろしい。
だが“女の勘”が侮れないことを早河は長年の経験で心得ている。時として女の勘は刑事や探偵の勘よりも恐ろしいことも。
『だけど真愛は佐竹先生に匠が産まれたことを話したんだろ?』
「え? さたけ先生には話してないよ。わかばやし先生と隣のクラスのえんどう先生にはお話ししたけど」
真愛はきょとんとした顔で首を横に振った。
『ふーん。そうか……』
さも自分が真愛から話を聞いたような言い方をした明美の態度が引っ掛かる。真愛がピンク色のポッキーを一本くれた。ストロベリーチョコレートの甘い味がする。
「みんなね、真愛のパパはかっこいいって言うの。サトちゃんもアキホちゃんもユズカちゃんもリコちゃんのママも言ってた。パパはみんなからモテモテなんだよ」
『はぁ……』
早河はどう答えていいかわからずに生返事をしていちごポッキーをもごもごと咀嚼した。
「パパがかっこいいのは嬉しいけど、でもちょっとやだ。パパは世界一かっこいいけど、パパをかっこいいって言っていいのは、真愛とママだけ! パパは真愛とママのだから、さたけ先生にもみんなにもあげないっ!」
握りこぶしを高く上げて真愛が車内で叫んだ。真愛の演説を聞いていた早河は笑いを堪えきれず吹き出した。
「もぉ! パパ、ちゃんと聞いてるのぉ?」
『聞いてるよ。大丈夫。パパは真愛とママのだし、真愛とママと匠がいればパパは何もいらないよ』
「うわき、しちゃダメだよ?」
早河は笑って片手を真愛の頭に乗せた。ポンポンと真愛の柔らかな髪を撫でる。
『しないしない。パパの好きな人はずっとママだけだよ』
小二の娘に何を言っているんだろうと恥ずかしくなるが、恥ずかしくなることを言ったかいはあるもので膨れっ面だった真愛の顔に笑顔が宿った。
真愛の“おんなのかん”を鵜呑みにするわけではないが、もしそれが事実なら小学生の真愛でもわかるほど佐竹明美の早河への好意が一目瞭然と言うことになる。
明美は今は真愛の担任ではないにしろ、彼女が東中野小学校に勤務する間は学校行事で顔を合わせる機会もある。来年度以降の真愛のクラス担任に再び就く可能性もある。
(俺や真愛の勘違いであればいいんだけどな……)
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