完結編 スピンオフ episode1.人魚姫 the last scene

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 柔らかな日差しが差し込む午後3時。木村家は優しい静寂に包まれていた。 子ども達の相手をしてくれていた渡辺亮も今しがた帰った。遊び疲れて眠ってしまった斗真と美夢の寝顔を見ながら隼人もまどろむ。  細く開けた窓の隙間から吹き込んだ春風がカーテンを揺らした。長い冬が終わり、もうすぐ桜の季節だ。  ──夢を見ていた。薄紅色の桜吹雪の舞う中、桜の木の下に佇む女性の夢。  こちらに背を向ける彼女が誰なのか、顔はわからない。だけど見覚えのある華奢な体つき、桜吹雪になびく髪、隼人……と呼ぶ声。 ああ……彼女は……美月だ。  夢と現実の狭間を行ったり来たり。今ここでこうしている自分はもしや夢なのではないか、夢で見ている情景が現実なのではないか。 境目の曖昧な夢を立て続けに見ていた彼は扉が開いた微かな音で目を覚ました。覚醒しきらない頭を振って隼人は立ち上がる。 「ただいま」 玄関には美月が立っていた。後方に松田宏文も控えている。隼人は人差し指を口元に当てて微笑んだ。 『お帰り。斗真と美夢、寝室で寝てる』 「そっか。……先輩が隼人に話があるって……」  昼寝中の子ども達を気遣って小声で言った美月は隼人と松田を交互に見上げた。隼人は黙諾(もくだく)して美月と入れ違いに玄関に立った。 『ヒロ、外に出よう』 『わかった。じゃ、美月。またね』  隼人は松田と共に玄関を出た。マンションの共用廊下に立つ二人は壁に背をつけて肩を並べる。 隼人の方が松田より2㎝背が高い。だが肩を並べれば二人の目線はほぼ同じ高さだ。 手すり壁の向こうに見える春の青空を一緒に眺めた。 『ケジメはついた。最後のデートをさせてくれてありがとう』 『どういたしまして』 互いに顔を見ずに言葉を交わす。用件の済んだ松田は体の向きを変えた。 『それじゃあ、お(いとま)するよ』 『……ヒロ』 通路を行きかけた松田を呼び止める。振り向いた松田に向けて隼人は片手を軽く挙げた。 『またな』  隼人の別れの挨拶は約束の印。 未来への約束は“さようなら”、じゃなくて、“またね”。がいい。 固い表情だった松田の顔にも笑みが宿る。松田も笑って隼人に向けて片手を挙げた。         *  その夜、子ども達を寝かしつけた美月は寝室を出た。リビングでは隼人がコーヒーを飲んでいる。 『ケジメついたってヒロが言ってた』 「うん。私もすっきりしたよ」 ソファーにいる隼人の隣に腰を降ろして彼の腕の中に潜り込んだ。 昼間に美月が帰宅した直後に斗真が昼寝から目覚めてしまい、隼人とゆっくり話せるタイミングがなかった。やっと訪れた夫婦二人の時間。 「隼人はいつも私のワガママ聞いてくれるよね。私は隼人に甘えてばっかり」 『俺にだけはワガママ言って甘えていい。好きなだけ甘えろよ』  隼人が美月の額にキスを落とし、それから唇を重ねる。彼が飲んでいたブラックコーヒーの香りと味が口内に広がった。  佐藤瞬と松田宏文。確かに美月は隼人以外の男にも惹かれて恋をしてきた。 松田とは関係を友情に変えられたが佐藤には今でも恋したままだ。 だけど、どれだけ他の男に惹かれても彼女が安心できる場所は隼人の腕の中。ここが彼女が彼女らしくいられる居場所。 「隼人もだよ。隼人も私にワガママ言って甘えて欲しい。隼人は物分かり良すぎるんだよ」 隼人は目を見張る。美月からそんな言葉を言われるとは思いもしなかった。 「佐藤さんのこともそう。私だけいつも隼人にワガママ聞いてもらってる」 『……俺が物分かり良いと本当に思ってる?』  抱き締める力が強くなった。痛いくらいに力強い抱擁、接触する身体は熱を帯びて、二つの鼓動は重なり合いひとつのリズムを刻む。 『じゃあ遠慮なくワガママ言っていい?』 耳元で囁かれた隼人の声は艶っぽくて、彼のこの声に何度も鼓動を速くさせられている。 「なんでも言って?」 美月が答えるや否や、彼は美月をソファーに押し倒した。何も言わずにふたつの唇を重ね続け、隼人はようやく顔を上げる。 『俺だけ見てて。これからも佐藤に会いに行っていい。ヒロとも仲良くしていていい。だけど俺だけを見てろ』  美月の前では格好つけたがりな隼人が見せた本音。彼はこれまで沢山無理をしてきたのだろう。 佐藤への恋心を抱える美月を受け入れ、佐藤を想い続ける美月を許し、佐藤に会いに行かせてくれる。それは並大抵の覚悟ではない。 何度も話し合って決めた結論だとしても、きっと隼人は無理をしている。  美月のパジャマのボタンがひとつひとつ外されて、剥き出しになった肌を隼人の大きな手が覆う。 「身体……平気?」 『少しキツいかも。今日は美月が上に乗って?』  佐藤との最後のデート以降、誰にも触れられていなかった身体の隅々に隼人の感覚が刻まれる。一気に取り払われたパジャマのズボンとショーツは床の上でくしゃくしゃになって丸まった。  佐藤と過ごしたあの夜の細部を隼人は知らないはずなのに。 首筋、鎖骨、乳房、脇の下、腹部、下肢、臀部、そして蜜壺。佐藤が触れたそれぞれの場所を、佐藤が舐めた場所を、佐藤が口付けした場所を、美月の身体の至るところに残る佐藤の感覚を隼人は自分の感覚に上書きしていく。  指で唇で舌で散々互いを弄ぐり合った後、美月はソファーに座る隼人の上に跨がった。美月が隼人に体重を預けると繋がりが奥まで達して、それだけで快感に支配される。 舌を絡ませて唇を貪り合いながら、美月が腰を動かしそうになると隼人が彼女の腰を両手で掴んで強く引き寄せた。 『まだ動いちゃダメ』 「ダメなの……?」 『どっちが先に限界になるかの我慢比べ』  じんわり汗が滲む美月の胸元に隼人が顔を埋める。繋がりは保ちつつ、じゅわりと濡れた蜜壺の奥で硬さを増す隼人の分身。その感覚がダイレクトに伝わって法悦の吐息が美月から漏れた。 乳房の突起に吸い付く隼人の頭をぎゅっと抱え込む。 こんなにも隼人に愛されて、隼人を愛しているのだと実感する。愛しさで心がいっぱいになった。 好きで、好きで、愛してる。 「私……隼人の奥さんでいられて幸せ。本当にそう思う」 『俺こそ美月が嫁さんで幸せだよ。ありがとう。いつも俺のところに帰って来てくれて』  顔を上げた隼人の瞳に光るのは愛の味がする涙。溢れた雫が隼人の頬を流れて、落ちた。 美月は隼人の目尻に残る涙を舌で舐めとり、自分から彼にキスをする。それが引き金となって二人の腰がゆらゆら、ゆらゆら、揺らめき始めた。 我慢比べは引き分けだ。  笑って泣いて愛して愛されて、今夜は心が忙しい。  あなたといるから、幸せなんだ。  君といるから、幸せなんだ。  これからも一緒に、生きようね。
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