episode2.父親奮闘記

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2018年11月26日(Mon)  肌寒い朝だった。早河仁は毛布に包まれた身体で寝返りを打つ。暖かい布団の中で彼はまだ夢の世界を旅していた。 「……パパッ!」 夢の世界に少女の声が響く。愛しい娘の声だ。小さな手がこちらに伸び、夢の世界の早河はその手を握って……。 「……パパ! ねぇ起きてよぉ」  身体を揺さぶられる振動で早河は重たい瞼を押し上げた。腹部に若干の重みを感じる。 寝ぼけ眼の早河の視界に膨れっ面をして彼を見下ろす早河真愛の姿があった。真愛は寝ている早河の腹部の上に乗って、彼の身体を揺さぶった。 「はやく起きて! 真愛、学校遅れちゃう」 真愛の一声で早河は今日が何曜日で現在が何時か確認した。スマートフォンの液晶画面には月曜日の文字と午前7時11分の表示。 『ごめん、真愛』  曜日感覚をすっかり失念していた彼は慌てて起き上がり、寝間着の上だけを部屋着のスエットに着替えた。 真愛はベッドの上で脚と腕を組んで呆れた溜息を漏らす。 「あーあ。ママの言った通りになっちゃった」 『ママ何て言ってたの?』 「パパはお寝坊さんだから7時になってもパパが起きなかったら真愛が起こしてあげてねって。お腹空いた! パパ朝ごはん作って!」  軽やかにベッドを降りた真愛に手を引かれて早河は一階のキッチンに強制的に連行された。早河は真愛のためにツナとチーズ入りのオムレツを手際よく作り、ホットココアも作ってやった。 「んー! パパのオムレツ最高っ! チーズとろとろぉ」 父親手作りのチーズオムレツを食べる真愛はご満悦の表情だ。 「今日はママのとこ行く?」 『真愛の病院の前に一緒に行こうな。学校迎えに行くから』  一昨日、11月24日に早河家に長男が誕生した。幸いにも母子共に健康な安産だった。 出産の大仕事を終えた妻のなぎさは産婦人科に入院中。退院予定は明後日28日だ。 なぎさのいない間、父親として真愛を学校に送り出す義務が早河にはある。朝寝坊をしている場合ではない。  ランドセルの中身と時間割の教科が合っているか確認する。月曜日の授業は五時間。一限算数、二限音楽、三限国語、四限体育、五限生活。 算数と国語の教科書とノート、計算ドリルや漢字ドリルも揃っている。体操服も用意済みだ。 学校に持たせている真愛の子ども用携帯電話の充電も確認した。今では小学生でも学校に携帯を持ち込む時代だ。 それは時代が昔よりも寛容になったのではなく、子どもを狙った犯罪が悪質化した結果と言える。ネットやSNSの普及で犯罪が多くの人に可視化されやすくもなった。  真愛はおもちゃの手鏡を持って色つきリップを一生懸命塗っていた。鏡に向かってリップを塗る小学二年生の真愛が大人の女に見えてきて末恐ろしい。 女は何歳からでも“女”のようだ。 「パパもお髭そってね。触るとジャリジャリして痛いんだよっ!」 リップを塗って長い髪をブラシでとかす真愛にそう言われてしまうと何も言い返せない。  ランドセルを背負って真愛は元気に家を飛び出した。父親の仕事をなんとか終えた早河はソファーにぐったり倒れ込む。 そのまま本日一本目の煙草に火をつけた。  まだ洗濯とトイレ掃除が残っている。月曜なのでゴミ出しもある。真愛を送り出した後も家の仕事は山積みだ。 なぎさはこれを毎日していると考えると頭が下がる。 子どもが健やかに育つのも、家が常に綺麗に片付いているのも、自分が作らなくても温かくて美味しい食事が食べられるのも、清潔な衣服を纏えるのも、なぎさが毎日家事をしてくれているから。 忘れてしまいがちだが忘れてはいけない妻への感謝の気持ち。妻の不在の大きさを改めて痛感した。  思えば真愛が物心ついてから父と娘の二人きりで数日を過ごすのは初めてだ。 真愛が2、3歳くらいの頃になぎさが仕事の都合や同窓会などのイベントで不在の時は幼い真愛と二人で留守番をしたこともあった。 しかし早河にも仕事があり、特に貴嶋佑聖が脱獄した2年前からは家に帰れない日々も続いた。早河もなぎさも家を空けてしまう日にはなぎさの実家で真愛を預かってもらっていた。  今回はなぎさのお産のため、母親不在となった真愛の生活の責任が早河にはある。だが真愛は誰に似たのか口が達者のおませな小学生に育ってしまった。 なぎさの留守も3日目にして、早河は小生意気でおませな娘との二人きりの生活に自信を失くし始めていた。  洗濯機が終了の合図を鳴らした。早河は歯ブラシを口に突っ込んだまま洗濯した洗濯物をカゴに放り入れる。 歯磨きと真愛に指摘された髭を剃って、顎と口まわりをさっぱりさせた彼は次にゴミ出し作業に取りかかった。  町内の指定のゴミステーションにゴミを出しに行ったところに、道端で井戸端会議真っ最中の近所の主婦二人に捕まってしまった。 決まっていつも誰かがゴミステーションの近くにたむろしている。これだからゴミ出し業務は好きになれない。 主婦達に二人目はいつ生まれた? 名前は決まった? 三人目は作るのか? と矢継ぎ早に質問攻めに遭い、疲弊した身体を引きずって自宅に帰りつく。  どうして彼女達は人目も気にせずに道端で長時間も話ができるのか。しかも話している内容はそれほど身のある話だとも思えない。 どこどこの家の子どもがどこの学校を受験して落ちた、どこの家の旦那が不倫していた、あそこの家が犬を飼い始めた、そんな話題ばかり。 誰かに聞かれてはまずい話はそもそも井戸端会議では話さないルールでもあるのだろうか。 しかし二人目が生まれてすぐに無遠慮に三人目の話を持ち出すのは勘弁して欲しい。  トイレ掃除もゴミ出しも終わった。あとは洗濯物を干すだけだ。二階のベランダに並ぶ洗いたての衣類。 今日は天気が良く、カラッとした11月の空が気持ちいい。 白地にピンクのいちごの絵が散りばめられた真愛のパンツを洗濯ハンガーに吊るす。 大人の真似をして一人前にリップを塗っていても、履いているパンツがいちご柄では真愛はまだまだ子どもだ。いちごのパンツの子どもっぽさに何故か安堵している。  これで朝の仕事は終えた。もう午前9時になる。 家事をしていると時間があっという間に過ぎてしまう。なるほど、これが主婦の感覚なのだ。  なぎさが出産前にアイロンをかけておいてくれたワイシャツを着て、ネクタイを締め、ジャケットを羽織る。慣れた仕草で腕時計を嵌めてスマートフォンをポケットに押し込み、中野区の自宅を出た。 現在も探偵業を営む早河の拠点は新宿区四谷の探偵事務所。早河は中野の自宅と四谷の事務所を行き来する生活を送っている。  四谷の探偵事務所で午前中の仕事を片付け、正午を過ぎた頃に彼は再び中野区方面に車を走らせた。
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