episode2.父親奮闘記

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 中野区の産婦人科の駐車場に着いた早河は車を降りる前にジャケットの袖口の匂いを嗅いだ。気をつけてはいるが産婦人科で煙草の匂いはさせられない。 匂いチェックを済ませて病院の中へ。清潔感のあるクリーム色の床と壁が彼を出迎えた。  待合室では女性が数人座っていた。腹部の大きさが目立つ女性もいれば、そうではない人もいる。訳ありの事情がありそうな高校生くらいの年頃の少女の側には母親らしき女性が付き添っていた。 産婦人科を訪れる目的は出産のためだけではない。あらゆる事情を抱えた人がここに集う。産婦人科には幸せも、涙もある。 男子禁制の気配が漂う院内の廊下を足早に歩いて階段で三階に向かった。面会時間は午後1時からと決まっている。 三階の廊下は面会に訪れる人々が行き交っていた。  病室の手前に設置された消毒スプレーで念入りに手指消毒をして、早河なぎさのプレートがかかる病室の扉をスライドさせた。 なぎさが早河を見て微笑んだ。彼女はベッドの側に置かれたケースに向けて小声で話しかける。 「パパが来たよー」 なぎさの視線の先には小さな命がいた。早河もケースに近付いて小さな小さなその命を見つめる。 一昨日に生まれた早河家の長男だ。 『寝てるのか?』 「さっきまで起きてたんだけど寝ちゃったみたいだね」 『父親が会いに来たのに気持ちよさげに寝やがって』  無垢な寝顔の長男の頬に触れる。温かく柔らかな感触に癒された。赤ん坊には皆等しく、人を幸せにする力がある。 出生届はまだ提出していないが息子の名前は決まっていた。(たくみ)だ。 「真愛との二人きりの生活はどう?」 『初っぱなから大失態。朝寝坊して真愛に叩き起こされた』 「やっぱり。思った通りね」  くすくす笑うなぎさの側で早河はふて腐れた。早河の朝寝坊はどうやら彼女の読み通りらしく、気に入らない。 『笑い過ぎ』 彼は笑い続けるなぎさの唇をキスで塞いだ。 「もうー。誰か来たらどうするの?」 『誰も来ない、誰も来ない』 「でも匠が側にいるよ?」 『寝てるし、まだ何をしてるかわからないさ』  屁理屈をこねる早河は小学生の真愛よりもワガママな子どもに見える。なぎさは困り顔で苦笑いして、早河ともう一度キスをした。  二人きり? いえいえ。 ここに僕がいるよ――小さな命が奏でる寝息がそう言っていた。         *  産婦人科を出た早河は家に帰って太陽の匂いを存分に含んだ洗濯物をとりこみ、一息入れる暇もなく真愛を迎えに東中野小学校まで車を走らせた。 今日は真愛を連れて再び産婦人科に寄ってその後は月に二度の精神科クリニックでのカウンセリングが待っている。  真愛は今年1月にある犯罪計画に巻き込まれて誘拐された。幸い体の外傷はなかった。しかし後に残ったのは心のダメージだ。 天性の性格の明るさでカバーされているが、真愛は心に傷を負っている。 あの誘拐事件の後は暗闇を怖がり、監禁されていた時に手足を縛られていた恐怖心から手や足を何かで縛られることを極度に嫌がるようになった。 以前はつけていたお気に入りのビーズのブレスレットも怖がってつけられなくなってしまったほどだ。  あの時の記憶を本人は忘れたつもりでも、心と身体が感じた恐怖心は消えない。その恐怖心から無意識に身を守るための防御や拒絶反応がPTSD(心的外傷後ストレス障害)を生じてしまった。 真愛が誘拐の標的にされたのは真愛が早河の娘だから。真愛が生まれた時、娘を全力で守ると誓ったのに守りきれなかった。 {──11月26日月曜日、時刻は午後2時15分。ニュースをお伝えします。都内で相次いでいる小中学生を狙った連続切りつけ事件、〈月曜日の切り裂きジャック事件〉に新展開です}  車内のラジオから流れるニュースに耳を傾けた。 先月から都内で小中学生の女子生徒が刃物を持った男に腕や足を切りつけられる傷害事件が多発している。 {五件の被害のうち、二件目と五件目の被害現場付近で不審な男の目撃情報が寄せられ、警視庁は目撃情報と風貌が類似する男の捜索を行うと共に、犯行曜日となる今日はパトロールを強化。小中学生をひとりで出歩かせないよう教育委員会と自治会の協力のもと、学校側に集団下校を呼び掛けています。不審人物を目撃した場合は110番、またはこちらの専用ダイヤル、01……}  過去五件の犯行がすべて月曜日に発生していることや凶器に刃物を使用していること、小学校低学年から十代半ばまでの女子児童をターゲットにする異常性犯罪の印象から、1888年にイギリスのロンドンで起きた娼婦連続殺人事件の犯人、切り裂きジャックになぞらえて世間では〈月曜日の切り裂きジャック事件〉と呼ばれている。 もちろん〈月曜日の切り裂きジャック〉はマスコミやSNSを中心としてそう呼ばれているだけであり、警察が扱う事件の正式名称とは異なっていることを元刑事の早河は知っていた。  被害は今のところ女子生徒の腕や足を切りつけるだけで終わっている。だがこのまま犯行が続けば行為はエスカレートし、強姦や殺人に発展する恐れがある。 警察関係者の危惧を裏付けるように、一件目の犯行では服を少し切られる程度だったものが二件目、三件目と犯行を重ねるに従って相手は人を切りつける快感に溺れている。 歯止めが効かなくなった犯人はいつか人を殺すだろう。そうなる前に警察は血眼になって現代の東京に現れた切り裂きジャックを捜しているのだ。  陰惨な切り裂き魔の話題は耳にするだけで胸糞悪い。もしも真愛が切り裂きジャックの被害に遭ったのなら、犯人を捜し出して気が済むまで殴った後に警察に突き出すだろうな……そんなことを考えているうちに東中野小学校の正門前に到着した。
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