episode2.父親奮闘記

5/17
93人が本棚に入れています
本棚に追加
/121ページ
 大人顔負けのおませな発言をしていても、真愛はまだまだ母親が恋しい子ども。産婦人科でなぎさに甘える真愛を見て、洗濯物のいちごのパンツを見つけた時と同じ安心感を感じた。  この産婦人科では12歳未満は新生児室には入れない。真愛は新生児室のガラス窓を覗いて、弟の様子を眺めた。 『見えるか?』 「んー……ちょっとしか見えない」 爪先立ちをして一生懸命背伸びをする真愛を早河は抱き上げた。目線が高くなり、新生児室の中にいる赤ん坊がよく見える。 『ほら、ここにいるのが匠』 「たくちゃーん! おねぇちゃんですよぉ」  ガラスの向こうにいる匠に小声で囁く真愛は“お姉ちゃん”になったのがよほど嬉しいようだ。 「ママとたくちゃん、いつお家に帰ってくる?」 『水曜日には退院するけど、ママと匠はしばらくおじいちゃんとおばあちゃんの家で暮らすんだ』 「えー。みんな一緒じゃないの?」 『ママも身体が疲れているからね。あっちのお家で身体を休めて、元気になったら匠と一緒に帰ってくるよ』  男には到底知ることのできない出産の重みと身体への負担。産後の女性の身体は静養が必要だ。 人の親となっても、実家の親の手を借りなければならない時もある。 『真愛もこれから病院だ。頑張ってくるってママと約束しただろ?』 「うん。たくちゃんバイバイ。おねぇちゃんも病院行ってくるね」  名残惜しく新生児室を離れて二人は産婦人科を後にする。今日はまだ帰路にはつかない。 次の行き先も病院ではあるが内科や歯医者ではなく、ある種の特殊な病院だ。  世田谷区の閑静な住宅街の一角に建つレンガ造りの外観と赤い屋根は一見すると洋菓子店のような雰囲気だ。 しかし看板の〈こどもハートケアクリニック〉の文字を見れば、ここがケーキ屋でもなければ個人の邸宅でもないと窺える。 この場合のハートは心臓ではなく“こころ”の意味を持つ。こどもハートケアクリニックは小児から20歳未満を対象とした子ども専用の精神科クリニックだ。  院長は高山政行氏。 啓徳(けいとく)大学病院精神科の部長を務めていた高山は6年前に大学病院の職を退き、世田谷にこのクリニックを開業した。  高山院長と早河の付き合いは10年に及ぶ。 10年前に高山の娘の有紗の家出捜索を早河が引き受けたことが高山父娘と関わるきっかけだった。 それに関連して失踪した高山夫人の捜索や当時の世間を騒がせていた女子高生連続殺人事件に有紗が巻き込まれる事態となり、有紗はPTSDを患った。  虐待や性暴力、突発的な犯罪の目撃や自然災害による被災などで子どもが心を病むケースは多い。 高山氏は長年、子どものPTSDや心の病の研究を行い、子どものPTSDに関する論文や著書も多数発表している。子どものPTSD研究の権威だ。 高山が開業したこどもハートケアクリニックではPTSDの子どもに限らず、不登校や家庭内暴力、パニック障害、様々な心の病を抱えた子どもが受診に訪れる。 妊娠した女子高生が親に相談できずにここを訪れて産婦人科を紹介してもらうケースもあったと聞いた。  なぎさの友人の徳永麻衣子(旧姓は加藤)も高山の開業と共に大学病院からこの病院に移り、心理カウンセラーとして勤務している。 真愛のPTSDのカウンセリングを任せられる医師は高山しかいない。早河もなぎさも即決で真愛のカウンセリングを高山に依頼した。  病院らしくはない可愛いらしい外観の茶色い扉を開けて院内に入る。パステルブルーのソファーに真愛を座らせて受付で予約の確認をしていると、廊下から男の子の声が聞こえた。 『真愛ちゃんっ!』 「斗真くん!」 真愛は嬉しそうにソファーを飛び降りて自分より少し背の低い男の子に駆け寄った。 『早河さん、こんにちは』  男の子の後ろからスーツを着こなした長身の男が現れた。彼の名は木村隼人。 早河と隼人も意図しない形で縁があり、今日まで交流が続いている。 『今日は互いに子守りの日らしいね』 『そうみたいですね。早河さんのところは息子さんが産まれたんですよね。麻衣子から聞きました』 なぎさの友人の麻衣子は隼人の幼なじみでもある。 隼人の息子の斗真も真愛と共に誘拐、監禁された。真愛より3歳下の斗真は症状は軽度ながらPTSDを患っている。  父親同士の会話をよそに、真愛と斗真はソファーに並んで座ってお喋りを楽しんでいた。 真愛も斗真も見た目は普通の元気な子ども達。だが元気な身体のその内側、心に負った傷痕は大人が思うよりも深刻だ。
/121ページ

最初のコメントを投稿しよう!