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カウンセリングの後、早河と真愛はとある場所に向かう。大通りから脇道に入り、住宅街に佇む三階建てマンションに到着した。
真愛が背伸びをして301号室の呼び鈴を鳴らす。
開いた扉から現れた女性が真愛と早河を出迎えた。
「いらっしゃいませーっ!」
「有紗おねぇちゃんー!」
抱き付く真愛の頭を女性は優しく撫で、玄関で靴を脱ぐ早河に微笑みかけた。
「いつも思うけど夢が叶った気分」
『夢?』
出されたスリッパに履き替えた早河はその女性、加納有紗を見下ろした。有紗は先ほど真愛のカウンセリングを担当した高山医師の娘だ。
3年前に結婚して今は加納の姓を名乗っている。
「仕事から帰って来た早河さんをお帰りなさいご主人様っ! ってやる夢。こうしてると早河さんと結婚したみたい!」
『バーカ。旦那にぞっこんのクセに』
有紗の額を小突いて早河は笑った。加納家のリビングでは有紗と夫である加納伊織の息子の歩がオモチャで遊んでいた。
今夜は伊織が出張で留守だ。退屈なので家に遊びに来てと前々から有紗に誘われていた。
本来は妻のなぎさも揃って加納家にお邪魔する約束だったが、なぎさの出産と重なったため今回は早河と真愛だけの訪問となった。
「なぎささん元気だった?」
『二人目だからな。真愛を産んだ時よりは調子良さそうだ』
早河は加納家のキッチンに立って夕食の支度を手伝った。真愛はお姉さん気取りで2歳になる歩と遊んでいる。
高校時代に早河に恋をしていた有紗はその後に行きつけのカフェで出会った加納伊織と交際、24歳で結婚した。
有紗の結婚式で彼女の花嫁姿を見た時は安堵と祝福の気持ちの他に、娘が旅立つ時にも似た寂しさが入り交じり涙が止まらなかった。
あの家出娘だった有紗が妻となり母親となり、今は有紗の手料理をご馳走になっている。10年の歳月は長いようであっという間だ。
夕食後に歩とはしゃいでいた真愛は歩の隣で寝入ってしまった。人様の家で遠慮なく大の字になって寝る娘を見て早河は溜息をつく。
『ごめんな。帰る時に叩き起こすから』
「ううん。いいの。カウンセリングした日は疲れちゃうんだよね」
寝ている子ども達にそっと布団をかける有紗は優しい母親の顔をしていた。
「私もカウンセリング終わった後はすっごく疲れて、その日は早く寝てたよ。頭や体を使うよりも心を使うことが一番負担が大きいってお父さんが言ってた」
有紗もPTSDを抱えている。
彼女の場合は10年前の女子高生連続殺人事件の犯人である実の叔父に、二度も殺されかけた。犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖が臨床心理士を騙って有紗に接触を図ったこともあった。
叔父は世間を騒がせた殺人犯、母親も殺されている。有紗の負った心の傷は誰にでも理解できるものではない。
加納伊織はそんな特殊な事情を持つ有紗を受け入れ、支え続けてくれている。有紗がいい人に出会えてよかったと心から思う。
有紗が食後のコーヒーを淹れてくれた。コーヒーの入るマグカップのひとつを早河に渡して、有紗は早河の隣に腰を降ろす。
『真愛がさ、パパ大好きって言ってくれるんだけど……』
「パパ大嫌いーっ! って言われるよりはいいじゃない」
真愛と歩の寝顔がすぐそこにある。二人を起こさないように早河達の話し声も控えめだ。
『うん、まぁな……。でもパパ大好きって言われるたびに真愛の父親が俺でよかったのかと考えるんだ。俺の娘に生まれたばかりに真愛には辛い思いをさせてしまった』
静かにコーヒーを飲む早河の横顔を有紗は見つめた。
昔は何かあっても早河が有紗に弱音を漏らすことはなかった。それは有紗がまだ十代の子どもだったから。
早河との出会いから今年の冬で10年。彼が心の内を語ってくれるのは有紗を対等に、大人として扱っている証だ。
「自分のせいで真愛ちゃんが苦しんでるって思ってる?」
『事件に真愛を巻き込んでしまったのは事実だ。俺の娘に生まれて真愛は幸せなのかって……』
「早河さんは私のヒーローなんだよ」
有紗は早河の腕を両手で掴んだ。こうして捕まえていないとふっと消えてしまいそうで、どこかに居なくなってしまいそうで、早河は時折そんな危うさを垣間見せる。
なぎさと真愛の存在が早河をこの世に繋ぎ止めている。だからどこにも行ってはダメだよ。あなたのこの手は大切な人を守るためにあるのだから。
「私がもし早河さんの子どもだったらね、私のパパは強くて優しくて格好いい最強の探偵なんだよって自慢しまくるよ。早河さんの娘に生まれて幸せに決まってるよっ!」
有紗の真剣な眼差しが揺らいで滲んで、目から涙が零れ落ちそうだ。
「早河さんが自分を責めるのはわかるけど、真愛ちゃんが早河さんの娘に生まれたから苦しんでるなんて思ってたら真愛ちゃんが可哀想だよ」
気遣う側から気遣われる側にいつの間にか立場が逆転していた。有紗の想いに心があたたまる。
泣きそうな顔をしていた有紗が早河の頬にキスをした。
「元気になるおまじないですぅー」
硬直した早河に向けて舌をペロッと出して微笑する有紗はイタズラが成功した時の子どものよう。有紗の成長を感慨深く感じていた矢先にコレだ。
『何が元気になるおまじないだよ……』
有紗の唇が触れた頬に手を当ててぼやく。頬にキスくらいで動揺はしないが、彼女が十代の頃とは違う。
有紗も27歳の大人、旦那も子どももいる彼女からの突然の攻撃に動揺はなくとも多少の衝撃はあった。
真愛と有紗、本日二回目の頬にキスだ。
有紗のしてやったりな顔にお返しのデコピンを食らわせた。額をさする有紗の笑顔は高校生の頃と変わらない。
「ちょっとは嬉しかった?」
『全然』
「ひどぉーい。伊織となぎささんがいるから口は我慢でほっぺにチューにしたんだよっ」
『ああ、そうですか。どーもありがとうございましたー』
棒読みセリフを述べる早河は有紗に背を向けてしまう。大人の女性になった有紗に迫られるのは妙に照れ臭く、どうすればいいかわからない。
「もう。キスした仲なのに素直じゃないなぁ」
『あれは忘れろ。10年も前だぞ』
「ずっと覚えてるもーん。早河さんがキス巧いことも知ってるもーん」
10年前に早河と有紗はキスをしている。ほっぺにチューなんて生易しいキスではないものを。
なぎさには何故か知られているが、有紗の夫には一生秘密にしなければいけない。
「でも元気になったでしょ?」
有紗は早河の背中に絵文字を描いていた。くすぐったい背中越しに感じる有紗の思いやり。確かに気落ちしていた気分は晴れている。
悔しいが頬にキスへの衝撃は凄まじかった。
早河と有紗の関係は恋愛の色欲を抜きにした、互いを思いやる優しさで溢れている。
いくつになっても有紗は早河を困らせる野良猫だ。でも有紗のこんな可愛いイタズラも、彼女が夫に一途なことをわかっているから受け流せる。
『……ありがとな』
「お安いご用さ」
言葉少なげでも気持ちが通じ合う年齢も性別も越えた友人の自宅を辞し、まだ半分眠りこけている真愛を車に乗せて早河は帰路についた。
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