第一章 小夜曲

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1月20日(Sat)  土曜日のショッピングモールは親子連れやカップルで溢れている。 どうしても観たい映画があって豊洲のショッピングモールの映画館まで出掛けた坂下菜々子だったが、人の多い場が苦手な彼女は映画を観る前から怖じ気づいていた。 映画の上映までまだ時間がある。人混みを掻き分けて三階の書店に入った菜々子は、書店に流れるゆったりとした空気に触れてようやく安堵した。  新宿や渋谷のような騒々しい街は苦手だ。豊洲なら……と勇気を出してここまで来たものの、映画館の他にも多くの店があるショッピングモールは新宿や渋谷と同じくらいの人の量で菜々子を辟易させた。 少女マンガの新刊を二冊胸に抱えて店内をうろついていた菜々子の足に男の子がぶつかった。 「ごめんねっ! 大丈夫?」 『うん。ごめんなさい』 菜々子が尻餅をついた男の子の手を取って立ち上がらせると、男の子はペコリと頭を下げた。 『すみません。斗真、ひとりで先に行っちゃいけないって言っただろ』  書棚の後ろから父親らしき男性が現れたが、菜々子は男性を見て目を見開いた。 「木村主任っ!」 『坂下さん?』 木村隼人も菜々子を見て驚愕する。隼人が斗真と呼んだ男の子は隼人と菜々子を交互に見上げていた。 「主任のお子さんだったんですね」 『長男の斗真。斗真、パパの会社の人だよ。お姉さんにご挨拶は?』 『こんにちは』 また斗真がお辞儀をした。菜々子は腰を屈めて斗真と視線を合わせる。 「こんにちは。礼儀正しい子ですね。さすが主任のお子さんです」 睫毛が長く、目鼻立ちの整った綺麗な顔立ち。斗真の容姿は父親の隼人に瓜二つだった。 『坂下さんも買い物?』 「映画を観に来たんです。上映時間まで本屋で暇潰しを……」  菜々子は持っていた二冊の少女マンガの表紙を隼人から見えないようにさりげなく手で隠した。読み物の好みを知られるのは自分の内面を知られるようで気恥ずかしい。 隼人が持つ文庫本のタイトルがちらりと見えた。難しそうな小説だ。 推理小説かSF小説のように見える。菜々子の知らない作家の本だった。 「主任は奥様とご一緒に?」 『うん。妻は下の子を連れて子ども服の店にいるよ』  斗真の頭を撫でる隼人は職場で見る彼とは違う。菜々子が普段目にするスーツ姿ではない私服姿の隼人に彼女は魅とれた。 (いいお父さんだなぁ。息子さんも礼儀正しくて可愛い) レジの順番で隼人達の直後に会計を済ませた。隼人の前に会計をすると、どうしても購入する少女マンガが見られてしまうからだ。 隼人は文庫本二冊と絵本三冊を購入していた。 『来年度から2年目だね。仕事どう? 困ってることはない?』 「主任や先輩方がわかりやすく仕事を教えてくださるので困ってることはありません」  エスカレーターに向かう道すがらも隼人は人目を気にせず堂々と歩いている。一方の菜々子はおどおどと左右を見回してうつむいていた。 その場の流れで隼人達とエスカレーターで一階に降り立った。下で待っていたベビーカーを引いた女性に斗真は一目散に駆け寄っていく。 『ママ!』 「斗真ー! お、パパに何か買ってもらったな?」  木村美月は甘える斗真の相手をしながら、隼人の隣にいる菜々子に気付いて会釈した。菜々子にとって二次元の美少女が三次元に現れた瞬間だ。 『美月、部下の坂下さんだ』 「は、はじめまして! 坂下菜々子と申します。木村主任にはいつもお世話になっておりますっ!」 美月との対面に舞い上がった菜々子の声が上擦る。隼人の妻の美月は菜々子が好きな美少女アニメ〈桃色学園プリンセス〉の主人公コモモに似ていた。 (コモモちゃんが三次元にいる! リアルコモモちゃん!可愛い!)  喉元まで出かかったコモモの名前を封じ込めて菜々子はお辞儀する。菜々子はこれまで二次元のキャラ以外にときめきを感じた経験がなかったが、崇拝するコモモと容姿が酷似した美月を前にして動悸が激しい。 「はじめまして。こちらこそ主人がいつもお世話になっております」 美月と隼人が並ぶ様は一段と神々しい。 桃色学園プリンセスの男性キャラでコモモの彼氏のショウくんと隼人もよく似ている。見目麗しく成績優秀なショウくんは学園の王子様だ。 (リアルコモモちゃんとリアルショウくん……尊い。このまま天に召されてもいいくらい眼福……) 『坂下さん、またね』 「はいっ」  木村夫妻を見送った後、ショッピングフロアから映画館に移動した。映画の入場待ちの時間に〈なっぱ〉のツイッターアカウントを開いてツイートを投稿する。   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  桃プリのリアルコモモ降臨!  リアルコモモちゃんとリアルショウくん夫妻尊い  ___________  →まおまお  えー!リアルコモモちゃんとリアルショウくん夫妻がいるの?  ___________ 桃色学園プリンセスのファン仲間の〈まおまお〉から即リプライが届いた。菜々子はまおまおに返信する。   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  →なっぱ  そうなの!職場の上司夫妻の奥さんがリアルコモモちゃんで上司がリアルショウくん!  奥さん実物かわいくて昇天しそうになった  ___________  まおまおへの返信をしてスマホの電源を切った菜々子は映画館の座席についた。これから観る映画はまさに桃色学園プリンセスの劇場版だ。  映画を観る前のわくわくした高揚感の裏側で内気な自分が顔を覗かせる。暗がりの館内で彼女は溜息をついた。 美月も桃色学園プリンセスのコモモも、綺麗で可愛い。おまけに格好いいお似合いの恋人がいる。 彼女達はすべてを手に入れている。 母親となっても綺麗にメイクをして素敵なパートナーと可愛い子ども達と幸せな生活をしている彼女達をまざまざと目にするたびに菜々子の心は死んでいく。 (私は一生あんな風にはなれない。あれは選ばれた人だけが手に入れられる幸せ。まず顔の造りから違うのにブスな私がメイクしたって可愛くならないし……)  休日にノーメイクで、ひとりでショッピングモールに出掛けてひとりで映画を観る人生が可哀想だとは思わない。ひとりで観る映画ほど気楽なものはなく、これはこれで自分らしく楽しんでいる。 リアルな友達の数よりもネットの友達の数の方が多くてもその方が楽だから気にしない。リアルの人は怖いけれどネットの人は皆優しい。 それでも、たまに思ってしまう。 容姿が美人だったら、スタイルが良かったら、彼氏がいれば、社交的な性格だったら、アニメの話ができるリアルな友達がいれば……でもどれも自分には高望みだ。 モブキャラは一生モブキャラで主人公にはなれない。ずっと死ぬまでモブキャラだ。  スクリーンに〈劇場版 桃色学園プリンセス〉とタイトルが映し出されて映画が始まった。アニメを観ていても菜々子は主人公ではなく主人公を取り巻くモブキャラの心情になりきって作品の世界に浸る。 桃色学園プリンセスの主人公のコモモは今日も菜々子に現実逃避の夢を見せるべく、きらきらと輝く笑顔を銀幕で披露していた。
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