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第二章 月夜烏
1月23日(Tue)
火曜日の朝は全国的に気温が低く、関東でもマイナス1℃の冷え込みとなった。東京の日中の予想最高気温は10℃だと気象予報士が解説している。
青空が見えていても風が冷たい。美月は娘の美夢をベビーカーに乗せ、斗真を連れて自宅を出た。
「斗真、今日のお夕御飯はなにが食べたいー?」
『えっとねぇ、ビーフシチュー!』
「斗真はビーフシチューが好きだねぇ」
しりとりをしながら歩いて数分で斗真が通うひかり幼稚園に到着した。幼稚園の先生に斗真を引き渡して、彼女はベビーカーの中で毛布にくるまれて眠る美夢と共に来た道を戻った。
斗真を出産してから美夢を妊娠するまでは美月も新卒で入社したインテリアメーカーの会社に勤務していた。そのため、斗真は1歳から3歳まで保育園に預けられていた。
現在はその会社を退社し、4歳になった斗真は今年度からひかり幼稚園に通っている。
保育園から幼稚園の転園で環境も変わって馴染めるか最初は心配だったが、幼稚園で過ごす斗真は毎日楽しそうで安心した。
自宅近くの緩やかな坂道の途中に男が立っていた。黒いロングコートで長身の体躯を覆った彼はかけていたサングラスを外した。
「佐藤さん……」
佐藤瞬が現れても美月はあまり驚かなかった。彼と10年振りの再会を果たしたのはもう一昨年になる。
『毎日子どもの送り迎えも大変だな』
「……どうしたの?」
『話がある』
佐藤は美月の横に並んだ。彼はベビーカーを押す美月の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる。
『キングが脱獄したことは……』
「知ってる。ニュースにもなってたし上野さんからも聞いてるよ。話ってキングのこと?」
『ああ……』
歩いていた佐藤の歩みが止まった。脇腹を押さえる佐藤の表情は眉間にシワが寄って苦しそうだ。彼の吐く息は白かった。
「大丈夫? どこか痛いの?」
『少し……な。平気だ』
よく見ると口の端にはかすかに傷跡がある。平気と言われても額に脂汗を浮かべる佐藤を放ってはおけなかった。
「もう少しでうちに着くから、休んでいって」
『すまない』
二人は坂道を左にそれた。洒落た外見の七階建てマンションが目の前にそびえている。
半年前に目黒区内の分譲マンションに引っ越した。将来的に斗真や美夢が高校生や大学生となった時を考えて、都内の学校に通いやすいように乗り入れ路線が多い目黒駅を最寄り駅とできる利便性が良い場所だ。
オートロックを通過してエレベーターで六階に上がる。605号室が自宅だ。
「どうぞ、入って」
美月は佐藤を玄関に通した。しばし躊躇の佇まいを見せていたが、彼は木村家に上がった。
広いリビングにはアイボリー色のソファーがあり、床にはブロックや電車のおもちゃがところどころ散乱していた。美月はそれらを斗真専用のおもちゃ箱に片付けて佐藤にソファーをすすめる。
佐藤はアイボリー色のソファーに腰を降ろした。柔らかなソファーの隅には子ども番組のヒーローのフィギュアが横たわっている。
自分が子どもだった頃も、父親にねだって憧れのヒーローのおもちゃを買ってもらったことを思い出した。懐かしく優しい記憶だ。
目を覚ました美夢におもちゃを与えて遊ばせている間に美月は救急箱を持って佐藤の隣に座った。
「怪我してるでしょ? 見せて」
『大丈夫だから』
「さっきの様子は大丈夫そうには見えなかったけど?」
美月の前では嘘がつけない。観念した佐藤はワイシャツのボタンを外してシャツを脱いだ。
美月が佐藤のインナーをめくる。左の脇腹に大きな痣があり、腕や背中にもかすり傷がついていた。
佐藤の体つきは美月が知る12年前に比べてがっしりとして逞しくなっていたが、12年前にはなかった傷痕で痛々しく傷付いていた。
保冷剤を佐藤の脇腹に当てて痣の部分を冷やす。斗真が転んで擦りむいた時にしか出番がない消毒液や絆創膏がテーブルに並んだ。
「話の続き……キングがどうしたの?」
『キングの目的はお前だ。あの人は今度こそ美月を手に入れようとしている』
保冷剤で冷やした痣に冷湿布を張り付けて一応の手当てを終えた。救急用具を片付ける美月の手が震える。
「……どうして私なの?」
『きっと美月に惚れているんだろうな』
「そんなの……そんなこと言われたって困るよ。キングのことは怖いけど、嫌いじゃないよ。でも……」
美月は今の平穏な生活を失いたくなかった。もしもまたキングに会えるならと、以前はそんなことを考えもした。
けれど母親となった今は犯罪なんてものと関わりたくもない。子ども達が犯罪に巻き込まれる事態になることを美月は何よりも恐れていた。
震える彼女の手に佐藤の手が重なる。絡み合う指先が12年の歳月を経ても変わらない想いを誓った。
『お前は俺が守る』
「守るって……佐藤さんはキングの部下でしょ?」
『カオスからはとっくに解任されてる』
穏やかな佐藤の微笑みは昔と変わらなくて、それでもあの頃にはなかった目尻に刻まれたシワが時の長さを物語っていた。
「解任? それって……」
また何も聞けないままで言いかけた言葉はキスの魔力で封じられる。始めは軽く触れる程度に優しくて、でも少し乱暴で、そのうち甘さに浸る余裕も失って無我夢中で互いを求めた。
抱き締められた時に佐藤から香る懐かしい匂いを吸い込んだ。覚えのあるこの香りは永遠と絶望の一夜の香り。
白く輝く月の下で叶わない未来を願った夢境の香り。
「あなたの香り……昔と同じなのね。この香りを嗅ぐと佐藤さんのこと思い出しちゃうもん」
『美月のためにずっと変えてない』
甘い言葉を囁かれて頬を染める美月は佐藤の前ではいつまでも出会った頃の17歳の浅丘美月のままなのかもしれない。
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