第二章 月夜烏

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 ひとり遊びをしていた美夢が美月と佐藤を目指してたどたどしく歩いてきた。まだハイハイの方がよく動けるが、最近は少しずつ歩ける歩数が増えている。 美月が美夢を呼ぶ。母親に呼ばれた美夢は嬉しそうに笑って彼女の膝の上のゴール地点に辿り着いた。 美月の膝の上で機嫌を良くした美夢は佐藤に小さな手を伸ばす。佐藤が美夢に触れると、小さな手が佐藤の手をぎゅっと掴んだ。 美月の胎内から産まれた生命に触れる心地は殺伐とした世界に生きる佐藤を柔らかな気持ちにさせる。 「佐藤さんに抱っこして欲しいみたい」 『抱っこって……いいのか?』 「うん」  美月の膝から佐藤の膝に美夢が移動する。 1歳の女の子の身体の重みが加わり、佐藤は恐る恐る美夢に触れて小さな身体を支えた。力加減を間違えると潰してしまいそうに柔らかな抱き心地だった。 「しばらく美夢を頼めるかな? コーヒーの用意してくる」 『ああ……』 母親不在の間、美夢の世話を任された佐藤は美夢を落とさないように支えながらテーブルにある絵本に手を伸ばした。 〈どうぶつかくれんぼ〉とタイトルが入る1歳児向けの本だ。佐藤が絵本のページをめくってやると美夢は木の後ろに隠れたゾウを指差した。 「あー、わん、わん」 『こっちにもいるよ』 「わん、わん!」 このくらいの年頃はまだ何を見てもワンワンやブーブーとしか言えない。佐藤が指差したキリンを見て美夢は手足をばたつかせて喜んだ。  美夢の子守りをする佐藤の姿は父親そのものだった。対面式のキッチンからリビングの二人の様子を眺めていた美月の心が二つに引き裂かれる。  二度と辿れない時間を巻き戻せればいいのに。 もしも佐藤と結婚していたなら、彼はこんな風に子どもの世話を焼く子煩悩な父親になっていただろう。叶わない未来の夢を今もまだ見ている。 (バカだなぁ私。佐藤さんが結婚したかった人は彩乃さんなのにね) 佐藤の婚約者の片桐彩乃が事件に巻き込まれて自殺さえしなければ佐藤は犯罪者になることなく彩乃の夫として、彼女との間に産まれた子どもの父親になっていた。 佐藤が彩乃と結婚していれば、美月と出会うこともましてや恋愛することもなかった。 (叔父さんのペンションに佐藤さんが泊まりに来たとしても私には見向きもしなかっただろうね)  ひとりの女の死によって人生が変わってしまった男と、ひとりの女の死がなければ赤い糸に引き寄せられて愛し合うこともなかった男と女。  美月は二つのコーヒーカップを持って再び佐藤の隣に座る。佐藤に相手をしてもらって上機嫌な美夢が今度は美月の膝の上で絵本を広げていた。 『なんで警察に俺が生きてることを話さなかった?』 「隼人が警察には黙っておこうって言ったの。あなたが生きていたとしても、あなたが私に危害を加えることはないからって……」 佐藤が美月の前に現れた日は隼人の幼なじみの麻衣子の結婚式の日だった。そして貴嶋が脱獄した日でもある。 あの夜、美月は佐藤との再会を隼人に正直に話した。殺人事件の犯人である佐藤の生存を警察に通報するのが民間人の美月と隼人の義務だ。 隼人はそんなことは百も承知で警察には通報しない結論を下した。もちろん二人が長年懇意にしている警視庁刑事の上野恭一郎にも佐藤の生存を知らせなかった。 『でも俺は木村くんには恨まれてるだろうな』  美月が淹れたコーヒーを飲み干して佐藤は立ち上がった。黒のロングコートを羽織る彼の背中に抱き付きたくなるのは、佐藤がまた遠くへ行ってしまうことを恐れているから? 『キングが本格的に動き始めてる。しばらくは用心した方がいい。不安なら木村くんと相談して警察に行け』 「うん……。佐藤さんはこれからどうするの? カオスを解任されたのなら今は何をしているの?」 『カオスの人間ではなくなってもしていることはカオスにいた時と同じだ。今はキングの居場所を探ってる』  慌ただしく玄関に向かう佐藤は不安げに立ち尽くす美月の髪を撫でた。上から下へ丁寧に美月の髪をすいて、彼女の額にキスをする。 美夢を抱えた美月の身体を両腕で包み込んだ。これっきり二度と触れられないかもしれない。二度と会えないかもしれない。 だから愛しい彼女のぬくもりと香りが消えないように全身に刻み付けて……。 『俺のことは心配いらない』 「そんな傷だらけで現れて心配しない方が無理だよ……」 美月は涙声で肩を震わせていた。泣き虫なところは大人になっても変わらないなと佐藤は苦笑いして、彼女と何度目かのキスをした。 『手当てしてくれてありがとう。それとコーヒー旨かった』  絡めた指がほどかれてサヨナラの呪文が残酷に響く サヨナラの先に待つものは何? これが永遠の別れならサヨナラなんてしたくない  砕けないように押さえた心 うれしいとくるしいは似ているね あの人に会えて嬉しいのに、あの人に会えるとこんなに苦しい  どんなに名前を呼んでも届かない声 手を伸ばしても届かない幻影 これも夢だと誰か言って これも幻だと誰か言って 永遠の別れは夢の中だけで充分だから……
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