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2018年2月17日(Sat)
土曜日の夕暮れ時。松田宏文は病院の廊下を歩いていた。彼がこの病院を訪れる目的は先月からここに入院中の友人、木村隼人の見舞いだ。
だけど最近では目的がそれだけではなくなっていると松田は自覚していた。
ナースステーションが見える位置に設置された廊下の長椅子に彼は腰掛ける。ナースステーションの奥で松田の姿を確認した彼女が小走りに駆け寄ってきた。
あれではまるで小動物だ。彼女を動物に例えると何だろう?
看護師がナースキャップを被りスカートを履いていたのも一昔前。白色のパンツスタイルのナース服を着た足立静香が松田の顔の前で手を振った。
「ぼぉーっとしてどうしました?」
『静香ちゃんを動物に例えると何かなって考えてた』
「ふふっ。それで私は何の動物なんですか?」
彼女は頬を赤らめて笑った。笑顔になるとできるエクボが愛らしい。
『ライオン』
「ライオン? えーっ……」
笑っていた静香の顔が不満そうな表情に変わる。喜怒哀楽、表情がコロコロ変わって見飽きない。
静香の表情の変化が面白くてついからかいたくなる。
『嘘ウソ。ウサギみたいだなって思ってた』
「意地悪ですねっ。でもウサギかぁ……」
今度はお気に召したらしい。また嬉しそうに頬を染めていた。
『仕事もう終わる?』
「はい。あとは引き継ぎをして終わりです。もう少し待っていてください」
『じゃ木村の病室で待ってるよ』
「わかりました。終わったら木村さんの病室に伺います」
仕事が残る静香と一度別れて、松田は病棟の廊下を進んだ。
静香とは先月に連絡先を交換し、今月に入って互いの仕事が終った後に食事に行くようになった。
静香は穏やかで優しい。そこにいるだけで場を和ませる雰囲気を持っている。
看護師としてはまだまだ半人前だと本人は謙遜しているが、患者や同僚からも慕われている。
自分の中で静香へのウエイトが大きくなっている。静香と過ごすひとときに安らぎを感じていた。
だからこそもうひとつのウエイトの存在を考えてしまう、もうひとりの自分がいた。そろそろケジメをつける時だ。
先ほど辞したばかりの隼人の病室の扉をノックした。病室に入ってきた松田を見て、隼人がノートパソコンから顔を上げる。
『どうした? これから静香ちゃんとデートだろ』
「まだ終わらないようだから戻ってきた。待ってる間ここに居させてもらっていい?』
『ああ。そこ座ってろよ』
西日の指す病室は白い壁や天井が夕焼けの朱色に染まっている。松田はベッド脇の椅子に腰を降ろした。
手持ちぶさたにサイドボードに置かれた文芸雑誌をめくる。この雑誌は松田が見舞いに差し入れた物だ。
『静香ちゃんとのデート今日で何回目?』
『四回目……って言うかデートらしいデートはしてない。病院のラウンジでお茶したり食事行ったり』
『それをデートって言うんだろ。中学生みたいなこと言うなよ』
中学生みたい……そう言われてみればそうかもしれない。静香との関係は知り合いの延長、友達の延長、まだその段階から踏み出せていない。
『付き合うのか?』
『……いつかはそうなるかも』
『煮え切らない答えだな』
『俺がそのつもりでも向こうの気持ちがまだわからない』
『静香ちゃんほどわかりやすい女も珍しいぞ。あっちの気持ちはヒロだってわかってるだろ?』
松田は黙って雑誌に目を落とす。目の焦点は雑誌に合っているようでそうではなく、ぼんやりとページをめくっているだけ。
『静香ちゃんに……俺のこと何か話した? 昔のこととか……』
間を置いて松田は尋ねた。隼人はキーを打つ手を止めて横目で彼を捉える。松田も雑誌のページをめくる手を止めていた。
開かれた文芸雑誌のページは若手作家四人が忘れられない恋をテーマに綴ったアンソロジーの特集ページだ。
『特に何も。静香ちゃんに聞かれてもいないからな』
『そう……』
『大学時代の美月とのゴタゴタを静香ちゃんには知られたくない、そんなようなこと思ってるのか?』
隼人が直球で投げてくる球を打ち返せるほど松田は器用ではない。隼人の言葉は心の中心部に深く突き刺さる。図星だった。
『鋭いねぇ』
『顔に書いてある』
『そんなこと顔に書いた覚えはないんだけどな。でもあの一件を静香ちゃんには知られたくないのは確か。それがどうしてかはわからない』
『静香ちゃんが知る必要もないだろ。ヒロと美月のことはあの時限りで終わったことだ』
隼人は普段通りのポーカーフェイスで澄ましている。妻のかつての浮気相手とその事実について話していても彼は平静を保っていた。
美月のことで隼人が自信を失って取り乱す相手は松田ではなく別の男だ。隼人のライバルに選ばれなくて悔しいような憎らしいような、ホッとしたような、自分が絶対に太刀打ちできない相手と築いた奇妙な友情もここまで長く続くとは思わなかった。
『終わったこと……だと思ってた。ずっと……。この前も言ったけど、美月が選んだ相手が隼人くんだから俺は美月の幸せを側で見守っていられる。俺はどう足掻いても隼人くんには勝てない』
松田が本音を呟く。
『ヒロは俺を過大評価してる。俺はそんなに出来た人間じゃねぇぞ』
『そんなことはない。もし俺が隼人くんの立場だったら、美月があの人に会いに行ったり手紙を出すことも許せなかったと思う』
松田が“あの人”と口に出した時にだけ隼人は口元を斜めにした。隼人の妻の美月は今月初旬に東京拘置所に赴いてある人物と面会した。
その人物こそ隼人が12年ライバル視している男だ。
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