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『美月が隼人くんと別れて俺のものになって欲しいとは思わない。でもいつまでも俺は美月に恋焦がれてる。静香ちゃんに惹かれてる一方で美月を忘れることもできない。身勝手で嫌になる』
隼人は松田の独白に耳を傾ける。彼は窓の外の夕焼けに目を細めた。
隼人にも忘れられない夕焼けがある。忘れられないラムネ味の青い飴。9年前の夏のはじまり、忘れられないサヨナラの瞬間。
『ヒロの気持ちはわかる。一度惚れたらそれをゼロにはできない。恋をなかったことにはできないんだ。お前が美月を忘れられないように、美月も俺も……絶対になかったことにはできない忘れたくない恋の過去を抱えてるんだよ』
『忘れたくない恋の過去か……』
人生は忘却と追憶の積み重ねだ。忘れて思い出して、また忘れて、思い出して、また忘れられない。
『一度、美月とデートでもして来いよ』
隼人からの予期せぬ提案に松田は驚きを隠せない。隼人は点滴が外れて自由になった腕を動かして見せた。
『俺も来週には退院だ。美月とヒロの都合の良い日に二人で出掛けて、ゆっくり話してみれば?』
『話すって今さら何を……』
『美月もヒロとの付き合い方を色々と考えたみたいでさ。亮達と集まっても俺の前ではヒロと二人きりにならないように……とか美月も気にしてるらしい』
木村夫妻と渡辺夫妻の集まるイベント事には渡辺の従兄の松田もたびたび参加する。
バーベキューや宴会の席でも美月は松田と二人きりにならないよう注意していた。そのことは隼人も、もちろん松田も気付いている。
松田はろくに読んでもいない雑誌のページを閉じた。
『けど……彼女と俺を二人きりにしていいのか?』
『俺は美月もヒロも信用してる。いくらお前が亮の従弟だからってそれだけでヒロを許して友達関係が築けたわけじゃねぇよ。俺はヒロの人間性を気に入ってるんだ』
『そう言われるとデートしても何もできなくなるな。もしかして先手打った?』
無意識に松田は腕時計に目をやった。静香の仕事が終わる頃だ。
隼人は無言の笑みを返して、ベッドサイドのスマートフォンを手に取る。
今日の美月は、斗真の幼稚園の作品展に出掛けていた。幼稚園で斗真がこの一年間に創った絵や工作の作品が展示されていて、入院中でなければ隼人も共に行きたかった。
隼人のスマホの写真フォルダには美月から送られてきた斗真の作品の写真が数枚並んでいた。
今夜はそのまま美月と子ども達は世田谷の美月の実家に泊まると聞いている。今頃は実家で休んでいる頃だろう。
後で美月に連絡しておこう。まさか旦那が自ら、妻と他の男とのデートをセッティングするとは。
こうでもしないと美月も松田も、静香も一歩を踏み出せずに苦しいままだ。
美月に関連したことになると世話を焼きたくなるのは12年前から変わらない。隼人は自分のお人好し加減に呆れつつ静香が病室に来るまでの間、松田と談笑を交えた。
勤務を終えた静香が隼人の病室を訪れたのは隼人と松田が楽しげに推理小説の話をしている最中だった。
本当はもっと早くに彼女は病室の前に来ていた。ちょうど隼人が美月と松田のデートを提案した頃に静香は廊下で彼らの話を聞いていた。
(やっぱり松田さんの好きな人は木村さんの奥さんなんだ……)
人間とは不思議だ。好きな人の好きな人が誰か、直感的にわかる機能が備わっている。
静香が松田と美月が話をしている場面を見かけたのはほんの数回だが、松田の美月を見つめる眼差しには先輩と後輩以上の想いを感じた。
あの二人の過去を詮索するつもりはなくても気になってしまう。
恋しい人の過去を気にしても仕方ない。どうあってもその人の過去に自分は介入できないのだから。
わかっているのに、気にしてしまう。
気にして気にして、後で後悔の溜息。
溜息をつくと幸せが逃げる。
なのに恋をしている人は溜息ばかり、ついている。
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