完結編 スピンオフ episode1.人魚姫 the last scene

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 3月を迎えた日曜日の昼前。目黒区の木村家には退院した隼人の姿があった。 木村美月は玄関先で靴を履いて振り向いた。彼女は不安げに夫を見上げる。 「本当に行ってきていいの?」 『いいんだよ。俺が言い出した話だ。遠慮せず行ってこい』 隼人は娘の美夢を抱き、彼の隣では息子の斗真がふて腐れている。美月が出掛ける支度をしていたので斗真は自分も連れて行ってもらえるものだと思っていたのだ。 「斗真、ママお出かけしてくるね。パパと美夢とお留守番してるんだよ」  美月が声をかけても斗真は知らんぷりで隼人の後ろに隠れた。今の斗真はご機嫌ななめだ。 『ほら斗真。ママにいってらっしゃいは?』 『……いってらっしゃいっ!』 半ばやけになって斗真は美月に抱きついていってらっしゃいと叫ぶ。美月と隼人は二人して笑って、彼女は斗真を抱き締めた。 「なるべく早く帰るからね。隼人も……無理しないでね」 退院して日が浅い隼人の身体はまだ本調子ではない。二人の子どもを隼人に任せての外出には気が進まなかった。 『大丈夫。昼飯は美月が作ってくれたやつレンチンすればいいし後で亮も来てくれる。今日はヒロのためにも行ってやってくれ』 「ありがとう。いってきます」  隼人に送り出されて彼女は自宅を出た。エレベーターで下に降りるまでのわずかな時間に、心の準備を整える。 松田と二人で会う機会を隼人が与えてくれた。その意味を、考えていた。  エントランスを出ると春の日差しが地表に降り注いでいる。空気はまだ冷たいものの、穏やかに吹く風の匂いに春を感じた。 マンションに面した通りに車が停車している。運転席から降りた松田が片手を挙げている。どちらともなく目で挨拶を交わして、美月は彼の車に乗り込んだ。 『改まって二人になると何を話せばいいかわからなくなるね』 「私も……。いつもどんな風に先輩と話していたのか思い出せない」 大学の先輩後輩の関係を経て、現在は友人関係にある二人は今さら緊張する間柄でもない。だが今日の美月と松田は明らかに緊張していた。 『隼人くんの調子どう? そろそろ仕事復帰するって聞いたけど』 「明後日から復帰するよ。無理はして欲しくないけど仕事が好きな人だから、早く仕事したくて堪らないみたい」  当たり障りのない話題を選んでも、上手く会話が弾まない。沈黙の最中に松田は隼人と初めて会った日を回顧した。 『俺と隼人くんが初めて会った時は亮くんが場をセッティングしてくれたよな』 「そうだったね。先輩が卒業しちゃって、私が3年になった年だと思う。ゴールデンウィークに亮くんが皆で飲もうって言って、麻衣子さんや比奈も呼んで……」 『その集まりに俺も呼ばれて、隼人くんと引き合わされた』 隼人と松田が対面を果たした8年前の飲み会のメンバーは美月と隼人、隼人の幼なじみの麻衣子、隼人の幼なじみ兼、松田の従兄の渡辺亮、美月の親友の比奈、そして松田の六人だ。 「やっぱり最初は隼人も先輩も挨拶程度だったよね」 『今思えばぎこちなかったな。従兄の幼なじみと言われても俺からすれば隼人くんは好きだった子の彼氏、隼人くんも最初は俺のこと睨んでたよ。いつ拳が飛んで来るかヒヤヒヤしてた』  あの時の飲み会には一触即発の空気が流れていた。たった一夜でも美月の心を揺さぶった松田と美月の恋人の隼人が対面したのだから当然だ。 「でも飲み会の途中くらいから隼人と先輩が少しずつ話してて、びっくりしたの覚えてる。話すきっかけって何だったの?」 『きっかけ……ああ、思い出した。俺、あの頃は新入社員だったから仕事行くのが毎日嫌でさ。新入社員は楽じゃねぇなぁって溜息ばっかりついてた。五月病ってやつだよ』 美月と松田は8年前の昔話に夢中になっていた。車内のぎこちなさは次第に薄れ、二人はいつもの調子を取り戻していく。 「あの頃の先輩、全然そんな風に見えなかった……」 『ははっ。美月の前でそんなカッコ悪いとこ見せないよ。で、隼人くんの方から仕事どうだ? って話しかけてくれて社会人も楽じゃないっすねって感じのやりとりが続いて、その時の上司へのモヤモヤとか隼人くんに聞いてもらってたんだ。二人とも酒入ってたからシラフの時よりくだけられたって言うか……』  自然と松田は隼人に当時抱えていた鬱憤とした気持ちを吐露していた。隼人は聞き役に徹していたが、ふいに返される隼人からの指摘や社会人の先輩としてのアドバイスは的確だった。 『この人には勝てないって思った。俺がどれだけ足掻いても無理だって確信したよ』  隼人と話をしたことでずっと心に引っ掛かっていたものが取れたような、晴れやかな気分になれた。それは仕事のことだけではない。 どうしてあのタイミングで渡辺が松田と隼人を引き合わせたのか、その理由もわかった気がした。 8年前の対面以降は松田と隼人は個人的に付き合いを始め、友情を築いた。美月や渡辺を抜きにして仕事帰りに二人で飲んだ日もしばしばあった。 『あの時、俺は本当に隼人くんに負けた。絶対に勝てない相手だと思い知ったから美月を諦められたんだ』  松田の車が交差点を曲がる。 行き先は事前に二人で決めていた。美月と松田の思い出のあの場所へ。 車は品川方面に向かっていた。
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