完結編 スピンオフ episode1.人魚姫 the last scene

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 青く支配された海の底  罪の目撃者は海の住人達  ふたりは罪の渦へと堕ちていく  戻れない領域へ、堕ちていく  夏の夜のたった一夜の夢物語         *  しながわアクアリウムの駐車場に車が到着した。シートベルトを外した美月は小道を挟んだ向こうに見える四角い建物を見つめる。 「ここに来るのはあの時以来。ずっと東京に住んでいるのにあれから一度も来てないの」 『俺も。ここはあえて避けてきた場所だった』 しながわアクアリウムは品川駅の近くにある大型水族館。9年前の夏、松田と美月は大学のサークルイベントをここで行った。 ふたりの罪の場所だ。  9年前と何も変わっていないようで、入り口のガラス扉に描かれた魚の絵や水槽の位置がところどころ変わっていた。経路に沿って二人は館内を進む。 薄暗く照明を落とした空間に紺碧(こんぺき)の世界が広がっていた。 『佐藤さんには会いに行ってる?』 「うん。この前、手紙書いたの。返事も来たよ」 『そっか。判決が出るまではまだ拘置所にいるんだよな』 周囲に人はいない。いるのは目の前を悠々と泳ぐ魚のみ。 水族館の人気者のイルカやシャチ、熱帯魚などの水槽以外の場所は比較的空いている。人に聞かれたくない秘密の話をするには水族館は意外と向いていた。 「判決が出ても多分、関東の刑務所に入ることになるって知り合いの刑事さんが言ってたの。刑務所に移っても月に一度は会いに行けたらいいなって思ってる」  ゆっくり歩を進める松田と美月の横を子ども達が追い越して行った。壁にかかる経路案内のボードにはイルカのマーク。この先はイルカの水槽だ。 あの子達はきっとイルカに会いに行ったのだろう。 経路を進むと予想通りイルカの水槽の周りに人だかりができている。水族館の人気者を一目見ようと、子ども達が水槽の一番前でイルカの姿を目で追っていた。  イルカの水槽の反対側にはペンギンがいる。松田はイルカに背を向けてペンギン観賞を楽しんでいた。 『イルカも可愛いけど俺はペンギンの方が好きなんだよね』 「隼人もペンギン好きって言ってた。男の人ってペンギン好きだよね。先輩もさっきからペンギンばかり見てる」 『ペンギンって歩く時はあんなにもたついて歩くのに泳ぐと速いなんて凄いだろ。お、コイツも速い速い』 陸から水中に潜ったペンギンを指差してはしゃぐ松田はこうしていると子どもみたいだ。男は何歳になっても、どこかに無邪気な子どもらしさを残している。 松田だけではない。隼人も佐藤も貴嶋佑聖も、彼らの無邪気な一面を美月は知っていた。  エスカレーターで三階に上がる。しながわアクアリウムの目玉の全長25メートルのアクアトンネルが二人を出迎えた。 凹の形をしたドーム型のトンネルに足を踏み入れた。どこまでも青い世界に支配された異空間は自分が海中にいると錯覚してしまう。 『ついにここまで来ちゃったな』 「ここはちょっと緊張する」  アクアトンネルは正真正銘の罪の場所。9年前に松田と美月はこのトンネルの中で一夜の泡沫(うたかた)の夢を見た。  カラフルな色彩の魚達が右へ左へ水槽内を泳ぎ回り、海底では珊瑚や水草が揺れている。 美月は幼少期、よく海の絵を描いていた。画用紙いっぱいに描いた青色の海の中には沢山の魚が泳いでいて、彼女が思い描く人魚姫の住む宮殿はたとえばこんな美しい海の底の、サンゴ礁の奥に建っている。  あの頃は人魚姫が悲しい物語だと知らなかった。人魚姫が泡になって消えた理由も理解できなかった。 絵本では泡となって消える悲しみの描写で幕を閉じることも多いが、アンデルセンの原作では人魚姫は泡になって消えた後は風の聖霊に生まれ変わる。 聖霊に生まれ変わった人魚姫は愛する王子の妃になった恋敵の女性の額に祝福のキスを贈る。人魚姫は王子も、王子の妃になった女性も恨んでいなかったのだ。 (先輩って人魚姫に似てるなぁ)  彼女は心の中でひとりごちして、青い光にゆらゆらと照らされる松田の横顔を盗み見る。 美月の視線に気付いた彼が微笑んだ。松田の微笑みを見るといつも心が穏やかになって安心する。 けれど彼が微笑みを向けるべき相手はもう美月ではない。 『……友情じゃないんだよな』 「え?」 『俺の美月への気持ちは友情にはならないってこと。何年経ってもLikeにはなれない。一緒にされたくないだろうけど、美月が佐藤さんを好きなように俺もいつまでも美月に恋してる』 改めて告げられる松田の想いが美月の心に封じた感情を呼び起こす。 『もし俺が身を引かなければどうなっていたか考えてしまう時がある。美月が俺を選んでくれたら俺は全力で美月を愛して守っていくのに……って』  アクアトンネルの中央で彼らは立ち止まった。宝石のように煌めく魚が頭上を横切った。 9年前、二人はここでキスをして抱き合い、ぬくもりに溶けた。色褪せずに鮮明な記憶のまま封印した甘美な夏物語が美月と松田の脳裏に再生される。 『気持ちにケジメをつけるためにちゃんと聞いておきたい。美月は俺のことどう思っていた?』 家族連れが二人の横を通り過ぎる。海のトンネルに夢中で誰も二人を気にしない。  ずっと言わずにきた言葉。言ってはいけないと封じた想い。 美月の瞳が潤んでいる。しかしここで涙を流してはいけない。泣いてはいけない。 「9年前のあの時……私は先輩を好きになっていたの」 ひとつひとつ、ゆっくり、気持ちを言葉に託して。 「あの時の私は隼人と佐藤さんのことで心がぐちゃぐちゃしてて……。自分でもどうしたいのかわからなかった。だから先輩の優しさに甘えて現実から逃げた。でも優しくされたから甘えたんじゃない。……誰でもよかったから甘えたんじゃないの。先輩だったから……」  美月の言葉が途切れたのは松田が美月を抱き締めたせい。昔とは違う香り、でも昔と同じ優しいぬくもりに包まれる。 『いつまでも罪な女だよな。寂しさを紛らわすために利用しただけと言われる方がまだ諦めもつくのに』 「ごめんなさい」 『ううん。ありがとう。一瞬でも俺を選んでくれて。美月の本音が聞けてよかった』  誰でもよかったと、利用しただけだと、そう言われた方がマシだった。 彼女はどこまでも罪な女だ。そしてどこまでも、素直な女だった。
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