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1.金木犀の残り香
2016年10月 東京。穏やかな秋の晴天に金木犀の甘い香りが漂っている。
木村美月は3歳になる息子の斗真を連れて近所の公園に出掛けた。
「今日は何して遊ぶ?」
『あれ、あれ』
斗真の小さな手がブランコを指差した。父親に買ってもらったばかりの新品の靴を履いた斗真は一目散にブランコに駆け寄った。
幼児用のブランコに斗真を乗せてゆらりゆらりと揺らしてやると、斗真は大喜びで自分でもブランコを漕ぎ始める。
土曜日の午前10時。昼過ぎから近所の小学生の子ども達も集まるこの公園は今の時間帯は人が少ない。
公園には美月と斗真、砂場で二人の少女が遊んでいるだけだ。
子ども達の憩いの場の住宅街の公園に黒いシャツと黒いスラックスの全身黒づくめの男が入ってきた。サングラスをかけている男はブランコの向かい側のベンチに腰掛ける。
男は美月が以前どこかで見掛けたことのある異質な雰囲気を放っていた。どこかで、それも非日常的な場面であのような雰囲気の人間と遭遇している。
ブランコを楽しんでいた斗真が次は滑り台に興味を向けた。3歳に成長した彼は最近は何でも興味を持ってやりたがる傾向にあり、興味の矛先が次々変わる。
滑り台の階段を上がる斗真を下から支えた。斗真は頂上に着くと笑顔で下にいる美月に手を振った。
「気を付けてね」
『うん』
えいやぁっ!と掛け声をあげて滑り台を滑った斗真の身体が地上に降り立った。一瞬で終わってしまう数秒の楽しみのために子どもは何度でも滑り台の階段を昇る。
美月はベンチにいるサングラスの男の様子を窺った。子どもの連れ去りのニュースが絶えない物騒な世の中だ。
自分の子がいつ犯罪に巻き込まれるか親は気が気でない。
こんな住宅街の公園にいるには不自然な男だった。家族連れでもない、営業のサラリーマンがふらっと公園に立ち寄って休憩をしているようにも見えない。
サングラス越しにじっとこちらを見ている彼の視線が自分に向けられている気がして、居心地の悪さを感じた。
彼女は腹部の膨らみに触れる。二人目の我が子の胎動に触れると心が落ち着いた。
「斗真、もう帰ろっか」
『えー、やだ』
「帰ってからホットケーキ作ってあげる。パパとママと一緒に食べよ」
外遊びに夢中な斗真もホットケーキの誘惑には勝てない。まだベッドの中でまどろんでいる斗真の父親もホットケーキの匂いをさせれば起きてくるだろう。
最後の一回の約束で滑り台を滑らせ、美月は息子の手をしっかり握った。
色の濃いサングラスで覆われた男の顔は遠目には顔つきまではわからない。しかし彼の纏う空気は誰かに似ている。
彼は誰に似ている?
公園を去る美月と斗真の姿を見届けた男は美月達とは反対の出入口から公園を出た。金木犀の香りの残る公園には砂場でおままごとをする二人の女の子の笑い声が響いていた。
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