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4.仮面舞踏会
新郎新婦がお色直しで中座する間、美月は化粧室に向かった。妊娠後期に入った身体は重たく、腹部は張っている。
化粧室を出た彼女は目眩を起こしてよろめいた。久しぶりの長時間の外出で少々疲れてしまったようだ。
よろめく美月の腕を誰かが掴む。隼人が来てくれたのかと思ったがその手は隼人ではない。
『大丈夫ですか?』
隼人ではない男の大きな手、隼人ではない男の低い声。この手もこの声も美月は以前から知っている気がした。
サングラスで目元を覆い、黒いシャツに黒いスラックス姿の男は先週の土曜日に斗真と公園で遊んでいた時に遭遇した男だ。
『こちらへ』
男はフロアの片隅に並ぶソファーまで美月を連れて行った。披露宴はまだお色直しの中座が続いている。ここでしばらく休んでから戻っても大丈夫だろう。
柔らかなソファーに二人分の命を抱えた美月の身体が沈み込んだ。
『飲み物でも買ってきましょうか?』
「いえ……休んでいれば良くなりますから。ありがとうございます」
彼女は顔を伏せて側に立つ男の足元を見つめた。
どうして顔を上げられない?
何を怖がっている?
どうしてこんなに鼓動が速い?
「あの……人違いでしたらごめんなさい。先週の土曜日に目黒区の公園でお会いましたよね?」
『ええ。公園で息子さんと遊んでいらっしゃいましたね』
公園にいた男と人違いではなかった。しかも彼も美月が公園で子どもと一緒に遊んでいた母親だと気付いている。
目黒区の公園に現れた男が豊島区のホテルにも現れた。偶然が二度重なればそれは必然になる。
「今日はどうしてここに?」
『ホテルに用があったんです。貴女はお知り合いの結婚式ですか?』
勿忘草の花の色をしたワンピースを着た美月は如何にも友人の結婚式に出席する人間の服装だ。美月は今度はサングラスの奥に隠れた瞳を見据えて頷いた。
「……サングラスとらないの?」
もう確信は美月の心にある。こんな展開は夢で何度も見てきた。夢の中では甘くて幸せな物語も現実には起きないと思っていた。
『やっぱり変装の装備がこれだけじゃバレるよな』
「バレバレだよ」
男が美月の隣に腰掛けた。
忘れられないぬくもり、忘れられない柔らかな声。優しい笑い方はあの人そっくりだ。
男の指がサングラスに触れ、じれったそうにずらされたサングラスが彼の目元を離れた。
現れた佐藤瞬の素顔。真夏の白昼夢から10年の時を経た再会は涙で滲んで彼の顔もぼやけて見える。
「生きていたの……?」
『隠していてごめんな』
「……嘘つき」
涙声で呟いて美月は佐藤の胸元に抱き付いた。彼女の膨らんだ腹部も一緒に佐藤の腕の中に包まれる。
「会いたかった……佐藤さん……」
10年前に死んだと思っていた愛する男が生きていた。
嘘つき、なんで、どうして、他にも言いたい言葉があるのに口から出てくる言葉はこれしかなくて。こんな時に限って言葉は役に立たない。
『俺も会いたかった』
佐藤は美月を抱き締め髪を撫で、ここにいる彼女の存在を全身で感じた。
「今までどこに居たの? 何をしていたの?」
『日本を離れていた。だけど美月のことはずっと見てきたよ。大学生の時も社会人になってからも、木村くんと結婚したことも知ってる』
「私のことを陰からこっそり見ていたんだ。そんなのずるいよ……」
止まらない涙に震える手。どこまでも優しい彼のぬくもりは夢ではない。
夢のような現実は白昼夢みたいだ。
佐藤は美月にどれだけ罵倒されても構わないと思っていた。罵られて嫌われた方が諦めもつく。
けれど彼女が涙声で紡ぐ言葉に罵倒の気配は微塵もない。どこまでも優しい女性だ。
愛しさが募る。離したくない、離さない。
自然と接近する二人の唇。美月は一時だけ、隼人の妻でも斗真の母親でもない、10年前の浅丘美月に戻った。
今の彼女は愛した男とキスを交わすただの女だ。
刻まれる鼓動の音は速く、身体は熱を帯びて熱い。
『今のは大人のキスの仕方だったな』
「バカ……」
17歳の浅丘美月が27歳の木村美月と重なる。泣き笑いする美月の唇に佐藤はもう一度、優しいキスをした。
*
隼人は手洗いに立ったまま披露宴会場に戻らない美月が気掛かりだった。陽気な音楽が流れる会場では招待客が料理に舌鼓を打ち、談笑を楽しんでいる。
『美月ちゃん遅くねぇか?』
『だよな。そろそろ主役が再入場する時間だろうし……』
お色直しをした新郎新婦の再入場の時間が刻一刻と迫っている。歓談の時間に中座しても主役の再入場までには着席するのがマナーだと美月もわかっているはずだ。
普段ならば少しくらい戻りが遅くても気にはならないが美月は妊娠中だ。
『最近あんまり体調良くなかったんだ。二人目の方がつわりも重くてさ。貧血起こしてるかもしれない』
『様子見に行ってくるか? 斗真は俺が見てるから』
『悪い。そうする。斗真、ママ捜しに行ってくるな。亮と一緒にご飯食べて待ってろよ』
子ども用のランチプレートを頬張る斗真は素直に『うん』と頷いた。斗真を渡辺に預けて隼人は披露宴会場の外に出た。
*
披露宴会場の外では美月と佐藤が抱き合っていた。
「どうして10年経った今、会いに来たの?」
『美月が大人になったら会いに行こうと思っていたんだ』
──美月が大人になるまでは美月の前に現れない── 7年前に美月の母と佐藤が交わした約束だった。
『だけど迷ってもいた。俺が現れたら美月の幸せを壊してしまうかもしれないと思うと……』
「……自惚れないで。あなたが生きて私の前に現れたとしても私の幸せは壊れない。私は母親であり、木村隼人の妻。あの頃のままの私じゃないの」
美月は腹部の膨らみに両手を添えて彼を見上げた。彼女はここに宿る命への責任を日々感じている。
10年前と同じ純粋で真っ直ぐな瞳には10年前にはなかった強い輝きが潜んでいた。浅丘美月でもあり木村美月でもある彼女は二人の子を持つ強い母親になっていた。
『本当に大人になったんだな』
「当たり前よ。これでも27歳ですからね」
『なんだか少し寂しい気もする』
「ふふっ。男の人ってほんとに勝手だね」
佐藤の手を借りて美月は立ち上がる。隼人と斗真が待つ披露宴会場に戻らなければ。
「佐藤さん。……生きていてくれてありがとう」
美月の笑顔は10年前も10年後もそのまま、佐藤が愛した月の光のような優しい微笑みだった。
佐藤に背を向けてひとりで歩き始めた美月に隼人が駆け寄って来る。隼人は佐藤の存在には気が付かない。
『遅いから心配した。大丈夫か?』
「ごめんね。目眩がしちゃってソファーで休んでいたの」
美月は隼人に肩を抱かれて披露宴会場の扉の向こう側に消えた。
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