16人が本棚に入れています
本棚に追加
代々木上原駅を下車して歩くこと数分。住宅街の一角にグレーの建物に赤い階段が印象的なアパートがある。ここが雪斗の住居だ。
「ご両親とは一緒に住んでいないんですね」
『まぁ今は……。職場が親と一緒だからプライベートは別々の空間を保っていたくて、イタリアから戻ってきてずっと独り暮らしです』
赤い階段を登った先の白色の扉に雪斗が鍵を差し入れる。彼の手には表参道駅の地下で購入した食材を入れた袋が提げられていて、園美はこの感覚に懐かしくなった。スーパーで一緒に買い物をして帰宅する恋人同士になれたみたいだった。
『狭くてすみません。そこのソファーにでも座っていて待っていてください』
雪斗の部屋は縦に長いワンルーム。フローリングの部屋にはキッチンとベッドやソファーの生活スペースがせせこましく同居している。彼の部屋にはテレビがなかった。
ソファーに座るとキッチンで動く雪斗がよく見える。
男の人に料理を作ってもらうなんて何年振りだろう。2年前まで同棲していた別れた恋人は家事を一切しない人だった。
包丁も持てない、洗濯機も回さない、アイロンもかけない。家事は女の仕事だと、時代錯誤な両親の刷り込み教育の結晶のような男だった。
その前に1年付き合っていた恋人は料理ができる人だったが、あまりにも味へのこだわりが強くて園美が作る料理の味付けに文句を言う人だった。
さらにその前の恋人となると大学時代の話になるが、互いに実家暮らしだった大学時代の恋人には手料理を振る舞った経験も振る舞われた経験もない。
こんな風に料理ができるのをワクワクして待っている至福の時間は外食でしかありえない。たまに実家に帰っても社会人になった娘が上げ膳据え膳とはいかない。実家でも家族分の料理を作ったり洗濯を担当することもある。
調理の合間に雪斗がこちらにやって来た。ゴソゴソと探し物をしていた彼はくるんだハンカチを園美の手のひらにそっと載せた。園美がハンカチを開くと、失くしたすずらんのピアスの片割れが顔を覗かせた。
「ありがとうございます。これお気に入りだったんです」
『よかった。ピアス可愛いですよね。お似合いでしたよ』
ピアスが可愛いと言われただけなのに自分まで可愛いと言われた気になって園美は頬を染めた。こんなにすぐに顔を赤くしていたら恋愛初心者の中学生並みだ。
ハンカチは雪斗に返して、戻ってきたすずらんのピアスをポーチの中に入れようとした時、もうひとつのピアスがポーチから出てきた。先週、ラフォーレ原宿でもう片方のピアスを外してからずっとポーチに入れっぱなしだったようだ。
雪斗が園美の手元にあるふたつのすずらんを見つめる。
『揃いましたね』
「はい」
園美は右耳と左耳につけていたピアスを外してすずらんのピアスに付け替えた。すずらん色のワンピースとお揃いのすずらんのピアスが彼女の耳元で涼やかに揺れる。
肩の下まで伸びていた髪を少しだけ切ったことで、耳元のすずらんのピアスの存在が一層際立つ。
『似合いますよ』
「ありがとうございます」
照れ臭くはにかむ園美を見て雪斗も微笑む。彼はキッチンを一瞥して立ち上がった。
『もう少しで出来ます。待っていてくださいね』
「お手伝いすることありますか?」
『そうですね……。もうすぐカッペリーニが茹で上がるので冷やすための氷水の用意をお願いできますか?』
「わかりました」
園美は立ち上がり、雪斗と共にキッチンに立った。
最初のコメントを投稿しよう!