言って、言わないで。

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「俺は花奏の幼馴染みである前に、あいつの……葵衣の、親友なんだ」 わたし達ふたりの想いを知っていて、そう言ってくれる存在が、慶がいてくれて良かったと心底思う。 この状況で、そんなことを考えるのは場違いなのかもしれないけれど。 「中途半端に近付くくらいなら、もう離れろ」 慶だけは絶対に言わないと思っていたことを、はっきりと告げられる。 衝撃や悲しさが押し寄せるよりも先に、苦しげに歪む慶の顔を見たら、それが本心でないことはすぐにわかった。 人のための最善はいつも、自分の望むものにならない。 だからこそ、せめてその “ 最善 ” が最悪と名前のつくものにならないように、願う。 一番してはいけなかった形で慶を裏切ってしまった。 「どうして、本音ばかりを殺すんだ……」 直球でものを言う慶らしくない発言。 けれど、きっと、その通りだ。 自分で選んだことさえ、簡単に覆してしまえる。 「ごめん、慶」 項垂れる慶に背中を向けて、駆けた。 もう本当に、どうしようもない。 ふたつにひとつしか選べないのなら、わたしはいつだって葵衣を選ぶ。 その天秤にかけられたのが、葵衣と慶であっても、葵衣とわたしであっても。 エレベーターではなく階段を駆け下りて、何かから逃げるように家へと向かう。 本当に逃げたいものは、家にあるというのに。 誰もいないと分かりきった家の玄関先で膝から崩れ落ちる。 しっかりと地に足をつけているつもりで、ずっと浮かれていたのだろうか、わたしは。 近しい人ほど巻き込んでしまうのに、葵衣と過ごす時間に溺れて、挙句その瞬間があればいいとさえ考えていた。 軽率に近付くことが許される距離感ではないと知っていて、それでも触れたいと思ってしまう。 どこまで人を裏切れば、葵衣を諦められるだろう。 どこまで人を傷付けたら、過ちに気付くのだろう。 見て見ぬフリが得意だなんて言いたくない。 いつも、心が痛まないわけではないのだから。
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