言って、言わないで。

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今は、ちがう。 日菜の優しさが、想いが、葛藤が、日菜を苦しめる。 わたしがこれまで抱いてきたものの一部が日菜にまで侵食してしまって、それでもわたしのために出来ることを探してくれていた日菜を切り捨てることなんて、出来ない。 葵衣を諦めること、諦めないことと同じくらい、日菜に背中を向けてその声を聞かなかったことにすることは、出来ない。 「どうしたらいいの」 吐き出してはじめて、先の見えない道の真ん中で自分が迷い子のように蹲っていることに気付いた。 時間だけが確かに進んでいく世界で、いつかは葵衣と離れる日が来る。 その流れに身を任せて、切なさと悲しさに堪えていられるかどうかしか、残されていないとさえ思っていたのに。 今更、白紙の地図を落として泣き出しそうになる。 何も示してくれない地図だけれど、決して無意味ではなかった。 ボロボロと崩れて破れて、風に攫われた、我慢の意味。 手のひらに閉じ込めていた石が床に落ちて、カツンと乾いた音を立てる。 「ちゃんと言おうよ。大丈夫だから。葵衣がいるから、花奏は苦しいんでしょう? だったら、それは葵衣のものでもあるんだよ」 「言えない。これは、わたしだけが持っていればいいものだから」 「それを決めるのは花奏じゃない」 涙混じりの声なのに力強くて、攻防を続けるうちに語尾が掠れて小さくなっていくのはわたしの方だった。 ついに口を閉ざしてしまったわたしの手に、落としたタンザナイトを握らせて、日菜が真っ直ぐに視線を上げる。 こうして、視線を合わせるのは随分と久しぶりな気がした。 日菜に限らず、色んな人の目から逃れたかったから。
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