忘れて、忘れないで。

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遅かっただなんて、言わせない。 家に帰ったとき、どの部屋にも葵衣はいなかった。 帰ってきた痕跡すら残さずにどこかへ行ってしまった葵衣の部屋を開けたとき、目の前の光景が信じられなかった。 床に置かれた段ボール、ところどころ隙間の空いた棚、丸めて端に寄せられたラグ。 引っ越したばかりの頃を思い出す。 不安と悲しみでいっぱいの中、初めて与えられた一人部屋での荷解きに耐えきれず、わたしはこの部屋で葵衣が段ボールを開いていくのを見ていた。 一段落したあと、次は花奏だな、と言って部屋に来てくれたこともよく覚えている。 しばらくすれば帰ってくるものだと思っていた葵衣は数日が過ぎても姿を見せず、その行方については更に数日後に友紀さんの口から聞かされた。 アルバイト先の先輩のアパートが現場に近く、まとまったお金を稼ぎたいとのことで、定期的に友紀さんには連絡を寄越すことを条件に世話になるらしい。 その話は旅行前に葵衣から聞いていたけれど、数週間程度の話だと思っていた。 これまではわたしのいない時間に帰ったり慶の家に泊まっていたことも、事実はすべて友紀さんが話してくれた。 それ以降、葵衣からの連絡はなく、わたしから発信することもない。 春が来て、夏が過ぎ、秋をむかえた。 わたしの専門学校への進学が決まる頃になっても、葵衣との連絡は途切れたまま。 橋田くんとはクラスが分かれ、日菜も葵衣とは連絡を取り合っていないようで、自然とその話はしなくなった。 慶はもともと会うことが少なかったこともあり、マンション近くで顔を合わせることはあっても、お互いに話しかけることはない。 進学先が決まった時点で学校の許可を得て始めた飲食店でのアルバイトにも慣れて、橋田くんと別れた日から一年が経つ。 まだ、葵衣を好きだった人には出来ていない。 葵衣はどうなのかわからないけれど。 橋田くんにもらったバレッタは引き出しの奥に眠り、一度も首に下げることのなかったタンザナイトのネックレスを今でも鮮明に思い出せる。 忘れたくても、忘れられなかった。 日付が変わる瞬間、二十二日になる前に携帯の通知を見るけれど、葵衣からのメッセージは終ぞ届かなかった。
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