見せて、見せないで。

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ベビーカーを押す同じ階の女性に先を譲り、戻ってくるエレベーターを待つ。 ゆっくりでいいと言われたのだから急ぐ必要はないのだけれど、今日はやけに時間がかかる。 一度上の階まで上ったエレベーターが降下し、ドアが開く。 今度は老夫婦が一組乗っていて、わたしひとりが入れる程度のスペースはあったから、ぺこりと頭を下げて乗り込む。 マンションのエントランスに着いて一番にエレベーターを降りる。 「葵衣……?」 後の人のために早く道を譲らなければいけないことはわかっていたけれど、入口付近に立っている葵衣から目が離せず、動くことが出来なかった。 葵衣の胸に身体を預ける、よく知った幼馴染みの姿を見て見ぬフリなんて出来ない。 立ち尽くすわたしを避けて外に出ようとする夫婦の気配に気付いた葵衣と視線が搗ち合う。 日菜は葵衣のシャツを握り締め、泣いているようにも見えた。 「花奏」 動揺とか、そういったものを普段は滅多に表情に出さない葵衣がひどく取り乱している。 わたしには躊躇いもなく回していた手は、日菜に触れることも出来ずに行き場を無くしていた。 「あたしといてよ、葵衣」 日菜が絞り出した震える小さな声は、それが本心ではなく虚勢と嘘であることをわかりやすく縁取る。 さっきまでわたしといたはずの日菜に突然呼び出されて、抱き着かれて、葵衣が一番状況を理解しきれていないだろう。 「何言ってるのかわからない。それより、日菜と花奏喧嘩したんだって? ちょっと話せよ。今からでも慶のやつ呼んで飯食いに行こう」 葵衣の気遣いにも日菜は首を横に振る。 葵衣との隙間からわたしを見た日菜の口が声にならない言葉を紡いだ。 『ごめんね』って。 背伸びをした日菜が葵衣へ何を耳打ちしたのかはわたしには聞こえなかった。 ただ、葵衣が大きく目を見開いて、息を飲む音は、聞こえた。 「だから、あたしと付き合って」 ずっと掴んでいた葵衣のシャツを離して、日菜ははっきりとした口調で告げた。 もう、わたしの方は一度も見ずに。 祈るような気持ちで葵衣の返事を待つ。 永遠にも感じられるほど長くて短い沈黙の後、葵衣は日菜に向かって一度、項垂れるように深く頷いた。 どうか、首を横に振る葵衣を見せて。 日菜にイエスと返事をする葵衣を見せないで。 両目を覆ってその場に崩れ落ちるわたしに駆け寄ってくれる人なんて、誰もいない。 さっきの沈黙の間に過ぎた時間とは比にならないほどの時が過ぎて、いつの間にか日菜と葵衣の気配は消えていた。 しばらくして、エレベーターのドアが開く音とともに、花奏、とわたしを呼んだのは、日菜を好きで日菜が好きな、幼馴染みの声だった。
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