届いて、届かないで。

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食べ終えた後の片付けをしている間、観もしないテレビをつけっぱなしにしていた。 無意味な音ほど煩わしいはずなのに、無音な世界に置き去りにされたくない。 流れる水の音だけを聞いていると、気が狂いそうになる。 すっかり冷めてしまった半分のお茶を飲み干して、それだけはシンクに置いておこうかとも思ったけれど、面倒臭さを振り払って水洗いをした。 剥がれかけた絆創膏の端をぐりぐりと押し付けて誤魔化す。 「……ワンルームかな」 初めてひとりで暮らすのなら、きっとそうだろう。 ひとつの部屋の電気を消して、別の部屋に移動することはない。 暗くなった部屋を去る寂しさは感じずに済む。 自室の小窓から漏れる明かりに向かおうとして、葵衣の部屋の前で足を止めた。 いけないことだとわかっている。 けれど、この期を逃したら二度と出来ないことだから。 ドアノブに手をかけて回す瞬間には目を閉じて、ドアを開いた感覚に集中した。 してはいけないことをしているのだと、わたし自身に知らしめるために。 「ごめんなさい」 躊躇いながらもわたしの部屋と同じ間取りの空間に入る。 月明かりを頼りにベッド脇の間接照明に手を伸ばす。 机の上のパソコンもモノトーンのキャビネットも紺色の上質なシーツも、知らない。 きっと葵衣が自分のお金で買ったものなのだろう。 ふと、壁に並んだ棚を見ると、小学生の頃に作った図画工作の作品や、中学生のときに技術で作った木製の本棚が並んでいる。 あんなもの、わたしは段ボールに詰めて押し入れに仕舞っているのに。 近付いて見てみても埃のひとつも被っていないそれを順々に眺めていると、下段の隅に写真立てを見つけた。 裏返しに伏せられた写真立てをひっくり返すと、わたしも見覚えのある家族写真。 わたしの持っている写真と違うところが、ひとつだけある。 フィルムの上から真っ黒なペンで、葵衣の姿が塗り潰されていた。 「どうして……」 これはいつからここにあって、いつ塗り潰されたものなのだろう。 背面に埃が被っていなかったから、葵衣はこの写真も丁寧に扱っていたのだと思う。 今の家族の形とは違う、わたしと葵衣、そして両親と四人で撮った写真。 わたし達が今の生活に慣れた頃、友紀さんが一枚ずつくれたものだ。 わたしは机の上にいつも置いてある本に挟んである。 葵衣は自分で写真立てを買って飾っていたらしい。 どんな意図で葵衣が自分の姿を消したのかはわからない。 髪、手足の先、伸びた影にまで黒色が重ねられている。 いてもたってもいられなくなって、サイドボードに置かれていたティッシュと、観葉植物のそばにあった霧吹きを手に取る。 油性ペンで描かれているようで、擦っても落ちない。 焦れて爪で削ると、幼い葵衣の顔がぼんやりと浮かぶ。 綺麗には消えず、黒色を薄めて引き伸ばしただけのように見えるけれど、葵衣の全身があの頃の面影を取り戻した。 これは、いつの写真だったかな。 両親が亡くなる前。たしか、七歳の頃に冬の海で撮ったものだ。 この頃にはもう葵衣のことが好きだった。 夏に県内一大きな神社に連れて行ってもらったときに、御神木の杉の木の下で約束をした。 それから半年後の写真だと思う。 杉の木の下で、今は思い出せない約束をしたあとから、葵衣を特別に想うようになった。
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