届いて、届かないで。

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触れ合ったままの手を橋田くんの手の下から引こうとしたけれど、強い力で握り込まれて顔を顰める。 「真野さんが他の誰かを好きでもいいから」 続く言葉を聞きたくない。 さっきの返事がすべてなのに引き下がられたって、わたしの意思は変わらない。 「付き合ってくれませんか」 どうして聞きたくなかったのか、橋田くんは知らないのだろうけれど、わたしは返事をノーしか持っていないわけではない。 早くてあと二年、いつかは葵衣と離れるわたしにとって、橋田くんではなくてもそういう対象がいることは悪いことではない。 忘れたいとか、そんな理由ではなくて。 葵衣との未来を描いてすらいないわたしには、こちらの気持ちを欲せずに交際を望んでくれる人の存在にありがたみすら感じる。 ずるくて、ひどくて、自分本位なわたしに都合のいい条件を無意識に持って来る橋田くんを、まだ冷静でいる部分が憐れむ。 「わたしのこと、きっと嫌になるよ」 「なんで?」 「わたしが、わたしのことを大嫌いでいるから」 これではたして理由になるのだろうか。 首を傾げる橋田くんにはきっと、わたしの考えていることが何も伝わっていない。 めちゃくちゃな理由に納得するフリをしてすぐに撤回するように、誰か助言してやってくれないかと横目に辺りを見回すけれど、ここにはわたしと橋田くんしかいない。 力は強いけれど、振り切れないほどではなくて、橋田くんが何も答えられずにいるのをいいことに、力が少し緩むのを見計らって半ば強引に手を引き抜く。 爪が机の上を掠って、高い音が響いた。 「傘、多分職員室で借りられると思うよ」 貸傘はあるのに、聞きもせずに濡れて帰ってしまう生徒が大半だということは、前に傘を借りたときに聞いた。 認めたくないけれど、少なからず橋田くんを蔑むような気持ちがあるのだと思う。 その気持ちを否定するためにも、ここから一刻も早く去るべきだ。 橋田くんが職員室に行くように、日誌を机に置いたまま教室を出る。 もし橋田くんが追いかけて来ても捕まらないように、教室が見えなくなった辺りから小走りをした。 迷いに迷って、橋田くんの靴箱にわたしの傘の持ち手を引っ掛ける。 橋田くんは、雨に濡れて帰るような、そんな気がしたから。 ボロボロの錆びた傘が傘立ての底に横たわっているのが見えたけれど、それを拝借することもなく、雨の中を少し急ぎ足で歩いて行く。 前のような大雨ではないけれど、マンションに着く頃には全身がびっしょりと濡れていた。 持っていたタオルを制服の生地に押し付け水分を取ると、裾から滴っていた雫も止まる。 一刻も早く制服を脱ぎ捨てたくてエレベーターのボタンを押す。 六階から降下し始めた電子表示を何の気なしに眺めていて、一階の文字になった瞬間、ある可能性が頭を掠めた。 今日は授業が一時間早く終わったことを思い出して今更焦ったってどうしようもない。 ドアが開いて、乗っていた人の姿が見えるまでの数瞬が永遠に等しく長く感じたけれど、実際は身を隠す余裕もなかった。 目が合わないように、俯けた視界には紺色の傘。
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