届いて、届かないで。

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見慣れたスニーカーがエレベーターを降りるのを見て、わたしも一歩踏み出す。 すれ違う刹那に葵衣を見上げたけれど、横顔にかかる髪が揺れた瞬間で、瞳がどこを向いていたのかすらわからなかった。 乗り込んだエレベーターのボタンを押せずに、外に出て行く葵衣と背中を見送る。 開いた紺色の傘、革製のショルダーバッグ、整えられた身嗜み。 帰ってくる葵衣ではなく、出て行く葵衣を見たのは初めてで、知らない人のように思えた。 前のように、玄関先で鉢合わせることにならなくてよかった。 色々なことがあって、以前とはわけが違うから。 六階の自宅に向かう途中、下を見下ろして葵衣の姿を探したけれど、もうどこにも見つからなかった。 しっかりと戸締まりがされていたことに安心して、家に入ると、薄らと花の香りがする。 嗅ぎなれたものではないけれど、覚えのある香りは、最近友紀さんが気に入っている入浴剤と似ている。 誰も家にいないからと、玄関先で濡れた制服を脱ぎ、湿った靴下の跡を廊下に残しながら向かうのは浴室。 ドアを開けると、もわりと湯気が溢れ出る。 浴槽には湯が張られているけれど、床は全く濡れていない。 葵衣が使うために用意されたわけではないのなら、これはきっとわたしのため。 顔を合わせられないことにホッとしていたことは、誤魔化せない。 この数日間、葵衣にはわたしを避けている気なんて一切なくて、寧ろわたしが葵衣を避けようとしていた。 気まずさから逃げようとして、それは葵衣にだってわかっていたはずなのに、こんなことまでしてくれる。 優しさ自体が棘を持っているわけではないのに、それに触れようとするわたしの指先がささくれているせいで、触れると痺れが走り、浸けると痛みが襲う。 思い切って飛び込むように沈んだ浴槽のお湯が冷えた身体に染み渡って、瞳から落ちた生温かな雫が水面を揺らした。
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