届いて、届かないで。

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濡れた制服を急いで乾かす必要はないけれど、ひとつ手を抜いてしまうとなし崩しに色々なことを放棄してしまいそうだから、バスタオルと共に乾燥機に放り込みスイッチを押す。 量が多い時は外干しをするけれど、雨が続いたり少量で回すときは乾燥機能に頼りがちになる。 この制服はアイロンが必要なのが難点で、外干しならば叩いておけば済むところを乾燥機にかけるとそうはいかない。 明日は土曜日だから、脱水だけして干しておけばよかったことに気付いたのは、髪を乾かして部屋に戻った後だった。 昨日の残り物が冷蔵庫に入っているのをいいことに、夜ご飯の献立を考えることも止めた。 いつも後の祭りばかりで、いつか取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと不安になる。 もう半分、引き返せない領域に足を踏み入れていることは見ないフリをして、目の前のことに後悔を注いでいると、幾分か心が楽になった。 ふと、ベッド脇に放っていたリュックの中から携帯が飛び出しているのを見つけた。 青いランプはメッセージの通知だ。 多分、橋田くん。 もしかしたら、慶かもしれない。 今は開きたくないけれど、帰り際の態度を鑑みて橋田くんからの可能性は薄いだろう。 慶だったら、何か用事があるのかもしれない。 少し湿った携帯のカバーをシーツで拭き取り、メッセージを開く。 送り主は、橋田くんでも慶でもない。 【 今から電話出来る? 】 ただ一言の日菜からのメッセージ。 震える指先で電源ボタンを押した。 心臓が一気に過活動になり、吐き出した息はすぐに肺に戻りたがる。 数分前に届いたメッセージに今返信をしたら、きっとすぐにでも着信画面に切り替わるだろう。 幼馴染みに対して、何を言われるのかと怯える日が来るなんて、考えたこともなかった。 ベッドの上に居住まいを正して、両手で携帯を持つ。 いいよ、と返信をすると、数秒もしないうちに日菜からの着信があって、心の準備をする間もない。 『 もしもし? ごめん、急に電話して 』 「……ん、大丈夫」 声が震えていることは日菜に伝わったのだと思う。 日菜は屋外にいるらしく、雨が傘、もしくは屋根を叩く音が聞こえる。 「日菜、今どこにいるの?」 人が疎らになって、橋田くんと教室で二人きりになる前に、一度席を見たけれど日菜はいなかった。 多分、どこかに寄り道でもしたのだろう。 それなら、外にいるのにわざわざ電話をかけるほどの用なんて、見当もつかないのだけれど。 『 学校 』 「帰ったんじゃなかったの?」 日菜の靴箱の中は見なかったけれど、傘立てに日菜の傘はなかったはずだ。 わたしの知らないデザインのものだとしても、綺麗な状態の傘は一本もなかった。 『 迎えに来てくれるって言うから……じゃなくて、橋田のことなんだけど 』 迎えにって、一体誰が行くのか。 日菜のお母さんが一番に浮かぶのに、エントランスですれ違った葵衣と日菜が並ぶ想像が消えない。 『 さっき、花奏の傘……ほら、パステルカラーのやつ。あれ持って出て行くの見かけたから、何かあったのかなって 』 「持って……?」 差して、ではなくて、持っての意味がわからない。 パステルカラーの傘は確かに橋田くんの靴箱にかけたから、まず間違いなくわたしのもの。 『 濡れて帰ってた。花奏の傘を持って。もしかして、やっと言ったの? あいつ 』 特別冷ややかものではなく、いつも電話越しに聞く日菜の声と同じなのに、嘲笑のようなものが含まれているように感じる。 答える必要がないと思って黙秘していると、電話の向こう側で水が跳ねる音がした。 『 葵衣、来たから切るね 』 「……あおい……?」 『 迎えに来てくれるって言ったじゃん 』 わたしは予想が外れることを願っていたのに、日菜は最初から葵衣が来ると知っていて電話をかけてきた。 でないと、橋田くんの話をするだけに電話をすることはないし、それが今である必要もない。 何も言い返せないまま、一方的に通話を切断された。 朝、傘立てに日菜の傘はあったか。 わたしの方が早く来ていたから、それもわからない。 もし、持って来ていなかったのなら、今頃葵衣の紺色の傘の下でふたり、肩を並べているのだろうか。 「やだ……っ」 頬がカッと熱くなり、どこにも繋がっていない携帯に向かって縋るように叫ぶ。 幼馴染みではなく、恋人として、日菜と葵衣が肩や腕の触れ合う距離にいる。 触らないで。 日菜に触れないで、葵衣。 葵衣に触れないで、日菜。 裸足のまま部屋を出て、慶に電話をかける。 焦りに急かされながら開けた靴箱のスニーカーに指を引っ掛けると、床に叩きつけられるように落ちた。 『 お? 花奏ー、珍しいな。お前から電話っていつぶり…… 』 「日菜のところに行かなきゃいけないの」 『 は? なに? お前ら仲直りしたの? 』 「してないけど! 葵衣が、一緒にいるって」 『 ……なんだそれ 』 こんなことを慶に伝えても、気分を悪くさせるし辛い思いをさせるだけだ。 好きな子が幼馴染みといえど男と二人きりで一緒にいると聞かされて、慶の声に怒気が混ざる。 『 俺が行くから、花奏は家にいろ 』 「わたしも行く」 『 来んな。お前がいるとわけわかんねえことになるだろ 』 ひどい言葉だけれど、慶がそういう言い方をする理由は理解してる。 わたしは葵衣を前にすると感情的になり過ぎるから。 そのくせ、肝心なことは言えずに黙ってしまうから。 慶が行くのなら、わたしは行かない方がいいことくらい、わかってる。 『 後でちゃんと説明するように葵衣に言っとくから、待っとけるよな? 』 不信感もあるのだろう。 幼い子に言い聞かせるように、語尾で声のトーンを変えてゆっくりと念を押される。 干渉するな、と一言で一蹴される予感がして、待ってるから葵衣には何も言わないで、と慶に頼んだ。 慶も慌てているのか、ドンッとかガンッと何かをぶつける音がして、玄関の開閉音が聞こえるまで続いていた会話のない通話を、わたしから切っておく。 落ちたスニーカーの向きを足で変えて、踵を潰しながら雑に履く。 玄関を出て耳を澄ますけれど、雨音だけが大きくて上の階の音は聞こえない。 通路を駆けてエレベーターホールの前に立ち、七階から降りてくるエレベーターを一度見送る。 それから更に数分待って、下へのボタンを押す。 一階に着いてエレベーターのドアが開いたとき、目の前に人がいたことに既視感を覚える。 そこにいたのは葵衣ではなく、仁王立ちをして腕を組む慶なのだけれど。 「あと三分待って来なかったら置いて行ってた」 「なにそれ。来るなって言ったくせに。待ってたの?」 「花奏なら追いかけてくると思ったから」 内心は複雑なのか、苦い顔をする慶に並び、肩の辺りを強く叩いて先を行く。 いってえ、と後ろで慶がぼやくのを聞きながらマンションを出ようとしたところで、傘を持っていないことに気付いた。 というか、家に傘がなかったのだけれど。 「慶、一緒に入れて」 「俺とお前はいいのかよ」 「いいよ。だって幼馴染みだもん」 傍から見たら違う捉え方をされてしまうのかもしれないけれど、そうでないことはわたしと慶が知っていればいい。
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