言って、言わないで。

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◇ 翌日、友紀さんに連れて来られたのは他県の温泉街。 川沿いに立ち並ぶお店はどこも活気に溢れていて、少し視線を上げるとあちこちに湯気が上がっているのが見える。 幼い頃に両親と旅行に出かけたことはあったけれど、友紀さんと暮らすようになってから、ここまで遠出をしたのは初めてだ。 夜の間に帰って来なかった葵衣は、わたしと友紀さんが家を出る少し前になって、マンションのエントランスにいると連絡を寄越した。 数時間運転を続けていた友紀さんは、朝が早かったこともあって少し顔色が悪い。 わたしと葵衣にとっての楽しみでもある反面、友紀さんの休息も兼ねてのものだと思っているから、車で来ることさえ、わたしは反対だった。 何だかんだと言いくるめられてここまで来て、車中では眠ってしまっていたのだけれど。 葵衣は早々にひとりで別行動を始めてしまい、わたしと友紀さんはホテルに荷物を預けてゆったりと散策マップを広げつつ歩き始める。 一泊二日と短いけれど、それにしたって葵衣の荷物は少なかった。 大抵のものは旅館で揃うから、身一つでいいとまで言い出すんじゃないかという予想もあながち間違いではなかったということだ。 町の北南を分ける大きな橋の真ん中からの景色を携帯のカメラに収めて、友紀さんを振り向く。 「友紀さんは来たことあるんだっけ」 「私がまだ花奏と同い年くらいのときに一度ね。お姉ちゃんが連れて来てくれたの、日帰りで」 「日帰り……! あ、でも、実家の方が近いんだよね」 「そのときも二時間はかかったよ」 川の音がおどろおどろしいほどに響く中、ずっと先の川縁に葵衣らしき人影を見つけ、思い切って呼んでみるけれど、こちらを向いたのかすらわからない。 「聞こえないでしょー この距離だとねえ。というか、私には見えないんだけど。いる? 葵衣」 「いるよ、ほら、今動いた。葵衣ー!」 こんなに思い切り葵衣の名前を呼び叫んだのはいつぶりだろう。 届かないのはわかっていて何度も呼んでいると、手も振ってみたら? と友紀さんに進言される。 さすがにそれは気付かれてしまうんじゃないかと思ったけれど、この際だからと大きく両手を振って、何度目かの葵衣の名前を叫ぶ。 すると、葵衣がこちらに向かって手を振った。 叫び返してはくれなかったけれど。
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