言って、言わないで。

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緩い下り坂を両手に荷物を抱えて歩く道中、葵衣の姿を見かけることなくホテルに到着。 三階はすべて洋室、わたし達の泊まる四階は和室らしい。 案内された部屋に入ると、目に飛び込んできたのは窓の外の景色だった。 最上階の角部屋からの景色は瞬きも惜しむほど美しい。 川の上流付近を囲む森の一角が開けていて、大きな滝が見えた。 川に面して建てられたホテルだから、表を走る車の音や姿は全く届かず、川のせせらぎや遠くで響く鐘の音、カワセミの鳴き声が鮮明に聞こえる。 「あ、花奏ー? ちょっと相談なんだけど」 買ってきた荷物を片していた友紀さんに呼ばれて、濃い畳のにおいがする床に座る。 「二部屋取ってあるんだけど、葵衣と一緒がいい?」 「へっ……」 「ほら、三人だと葵衣が居心地悪くなっちゃうかなと思って。今考えてみたら、私が別室でもいいじゃない? ふたりとも最近あまり顔合わせてなかったみたいだし、たまには、ね?」 「い、いや……葵衣、嫌がるんじゃないかな。旅行に来てまでわたしと一緒なんてさ」 「二泊だったらふたりと一日ずつ過ごせたんだけどねえ」 人の話を聞いているのかいないのか、まるでわたしと葵衣を同室にすることで決定したように、ふんふんと鼻歌混じりに荷解きを始める。 さすがに冗談だろうと思い、わたしも自分の荷物に手を伸ばそうとすると、友紀さんに止められた。 「もう一部屋の方が広いから、そっちに行きなね。ほら、エレベーターからこっちじゃなくて反対の突き当たり。距離はあるけどその部屋からの景色も格別なのよ。葵衣には部屋番号伝えてあるから」 「ちょ、待って待って。なら、葵衣がひとりでいいじゃん。わたしの荷物ここにあるんだし」 「ええ……葵衣に広い部屋ひとりで使わせるの、嫌だなあ」 「友紀さん、もしかしてひとりになりたいの……?」 察してあげられたらいいのだけれど、生憎この状況では冗談なのか本気なのかもわからない。 「この町ねえ……お姉ちゃんに初めて連れて来てもらった場所なんだけど、あの人と出会った思い出もあるんだ……」 「旦那さんと……出会った場所……」 「あの人が育った町なんだよ」 友紀さんに引き取られて、小学校を卒業するときに旦那さんの存在を聞いてはいたけれど、馴れ初めや思い出話は聞いたことがなかった。 荷解きの手を止め、窓から流れ込む自然の音に耳を傾ける友紀さんは穏やかに微笑む。 その顔を見て、わたしは自分の荷物に置いた手を下ろした。 家に帰ったら、友紀さんに話を聞いてみようと思う。 わたしの知らない友紀さんの話を。 旦那さんのこと、お母さんのこと。 きっと、わたしの知らないことがたくさんある。
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