言って、言わないで。

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注文を取りに来た女将さんに注文を済ませ、湯気を立てるほうじ茶の湯のみを両手で包む。 「お肉じゃなくてよかったの?」 「こんなときじゃないとカニなんか食わないだろ。肉ならお前のもらえばいい」 「わたしもカニ食べたい」 「わかってるよ」 半分こをする気満々で料理を待つ。 仕切りがあるから、他に遠慮をすることもない。 行燈の仄かな明かりが心地いい。 足元や背中のぬくもりも相まって、眠くなってくる。 ふと向けた視線の先に置かれたパーティションには松の模様が彫られていて、部屋の襖にも杉が描かれていたことを思い出す。 「懐かしいなあ……」 「何だよ、突然」 「ほら、覚えてる? 昔大きい杉の木の下で約束したこと。どんな内容だったかは覚えてないんだけど」 子ども同士の約束だし、覚えていなくて当然だと思っていた。 だから、何でもないことのように言ったのに、葵衣が僅かに瞳を揺らすのを見てしまう。 「葵衣……?」 「覚えてない。そんなこと、あったっけな」 嘘だ。絶対、覚えてる。 そんなに大事な約束をしたのだろうか。 忘れてはいけないようなことを。 幼かったわたし達が、一回りも成長した今になっても必要な約束の心当たりがない。 葵衣はそれきり口を噤んで話そうとしないから、パーティションの杉を一心に見つめて、約束を思い出そうとするけれど、何も掴めない。 そうしているうちに料理が運ばれ、上の空で説明を聞く。 鍋が滾る音、カニの殻が暴れる音、火が燃え上がる音、すべての音が、今は余計な情報になる。 「今思い出さなくても、いつか絶対に思い出すから、そんなに考え込むなよ」 真っ赤なカニの足を持ち上げて、小皿に載せたかと思うと、わたしの料理の脇に置く。 わたしも皿に盛られた肉をいくつか小皿に載せて葵衣に差し出そうとして、手を引っ込めた。 箸で持ち上げた肉を鍋の中に潜らせて、底の深い皿に入れ替える。 ポン酢をかけようとすると、葵衣に止められた。
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