言って、言わないで。

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いけない。 綺麗なふたつのガラス玉を独占しているだなんて、考えてはいけない。 わかっているのに、その瞳から逃れられない。 逃れたくない。 見つめ合っているわけではないのに、お互いの目にはお互いだけが映っている。 この時間がずっと続けばいい。 余計な言葉はいらない。 ただ、葵衣だけを見ていられる、この時間が。 そう思ったのも束の間、瞬きをした隙に葵衣は視線を別のところへ向けていた。 何もない壁をぼうっと見つめる葵衣を、今度はわたしが見つめ続けた。 「残すならもらうけど」 鍋の中に揺蕩う肉をいつの間にか持っていた箸でつかみ、わたしの小皿に残っていたポン酢に浸してその口へと運んでいく。 目が離せなかった。 僅かに光る唇に触れたいと、そんな欲求が込み上げて、両手を顔に当てた。 「だから言っただろ。鍋食ったら暑くなるって」 見当違いも甚だしいな。 きっと、わざと言っているのだろう。 今度こそ葵衣が箸を置いて湯呑みをぐっと呷るのを見届け、先に立ち上がる。 受付に立つ女将さんに一声かけて通路に出ると、店の中との寒暖差に身震いをする。 葵衣を置いて先に行ってしまおうと思ったけれど、エレベーターを待っている間に隣に並ぶことになる。 短い沈黙を破ったのはわたしでも葵衣でもなく、エレベーターの開閉音。 気まずくさせたのは葵衣なのに、平気な顔をして隣に立つのが気に食わない。 部屋のある階で降りて先に行こうとすると、エレベーターと通路床の狭間を跨ぎかけたわたしの腕を葵衣が握る。 「なに」 どうせ答えないのはわかっていて、不機嫌さを隠さずぶっきらぼうに告げると、少しだけ動揺の色を見せる。 その動揺さえ、わたしの態度のせいなのか、腕の熱のせいなのかが見抜けない。 触れられた部分から広がる熱が、どれだけ葵衣に伝わっているのかは、わからないけれど。 「……約束、本当に覚えてねえの?」 苦し紛れに聞くにしても、もっと他にあるでしょう。 さっき自分で埋めたものをもう掘り返してしまうなんて、あんまりだ。 「覚えてない」 軽く振り払ったつもりが、思いのほか強く振りかぶってしまい、いつかのように葵衣の手を弾く。 葵衣がどんな顔をしているのか。 簡単に想像がついてしまうから、逃げるように駆け出した。 歩いていては追いつかれてしまう。 今なら、走って追いかけては来ないだろう。 ルームキーを翳してドアが開いていく時間さえも惜しくて、手動を加えてわたしひとりが入れるスペースを作りさっさと中へ入ると、来た時には敷かれていなかった布団が二組、畳に並べられていた。 月明かりと行燈の形をした間接照明にぼんやりと照らされる室内で、一際目立つ襖の前に座り込む。 「約束……」 そっと指先を滑らせて頭を空っぽにしても、記憶の海は凪いだまま、小波さえ立てない。 そのうち、いつまで経っても葵衣が戻ってこないことに気が向いてしまい、結局何も掴めなかった。
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