言って、言わないで。

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まさか見知らぬ土地で一晩帰って来ないことはないだろうと思っていたけれど、二時間が過ぎても葵衣は部屋に戻らない。 すれ違いは避けたくてずっと待っているけれど、埒が明かない。 葵衣を待っている、という体が欲しいというのは、それはあまりにも自分勝手過ぎるだろう。 行き違いになってしまってもいい。 たとえひとりで過ごす方が葵衣にとって心地良かったとしても、わたしが蒔いた種を見て見ぬフリは出来ない。 葵衣のコートを掴んで部屋を出る。 薄暗い通路にぺたりぺたりと一人分の足音が響く。 まだ九時を過ぎたばかりなのに、ここまで暗くする必要はあるのだろうか。 怖いというよりも心細くなってしまい、腕に抱えていたコートを胸に抱く。 エレベーターホールへの曲がり角に差し掛かったとき、小さな音が聞こえた。 人の声、というよりは、くしゃみのような。 「葵衣……?」 恐る恐る、暗闇に向かって呼びかけるけれど返事はない。 覗き込むようにエレベーター前を見渡すけれど、人影すら見えない。 エレベーターホールは通路よりも明るくて、橙色の照明と非常灯の緑色が混じり合い、綺麗というよりは不気味な雰囲気を醸し出している。 思い切って足を踏み出したとき、エレベーター脇に通路が続いていて、そこから仄かにコーヒーの香りがした。 来た時はスタッフ専用の通路か何かかと思っていたけれど、そうではないらしい。 【喫煙ルーム】の文字が反射板になっていて、薄暗いからこそ気付くことが出来た。 そういえば、館内の見取り図にも載っていた気がする。
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