言って、言わないで。

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煙草の匂いではなくコーヒーの香りがすることに違和感を覚えながら、そちらへ足を向ける。 八畳ほどの空間には四方に木製のベンチが置かれていて、真ん中に灰皿が鎮座していた。 隅に配置した方がいいのではないかと思うほど、ベンチとの距離が遠い。 東面にだけ窓枠が組まれており、街灯がいくつか並ぶ駅までの道のりが見えた。 窓側に置かれたベンチだけは背もたれがなく、探していた人はこちらに背を向けて夜空を見上げていた。 「葵衣」 葵衣の肩にコートを引っ掛け、背後から腕を回す。 肩に顔を埋めてゆっくりと息を吸い込むと、よく知る香りがする。 けれど、少し、以前とは違う香りも混じっていた。 それだけ、離れている時間と距離があったから。 抱き締めることは出来なくて、葵衣の胸元で行き場をなくしたわたしの手を冷えた体温が包み込む。 「冷てえ……」 「葵衣の方が冷たい」 お互いに同じことを言っていて、けれど葵衣の手の方が冷たいと感じるということは、わたしの体温の方が高い証拠だ。 人の体温を冷たいと感じるときは自分が温かくて、人の体温を温かいと感じるときは自分が冷たいとき。 そんな当たり前のことを知るためには、触れて感じてみなければわからない。 「あったかいな、お前」 握る、というよりは覆うようにわたしの手に重なる葵衣の手の力は弱々しい。 きっと、戸惑っているからだ。 わたしも、こんなに積極的な行動をしてしまったことに対して、今は少しぼんやりとしている。 わかっているのは、後で後悔をするということだけ。
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