言って、言わないで。

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悲しいわけじゃない。 だってそれは、正しい選択だから。 けれど、苦しい。 それは、こんなにも穏やかで優しい時間と温もりが、今この瞬間で最後かもしれないから。 同じ気持ちでいるとわかっても、伝えることは出来なかった。 度を過ぎた欲求はボロボロと零すのに、その一言だけは是が非でも避けようとする自分自身を褒めてやりたいくらいだ。 目が覚めたら、葵衣はいない。 目が覚めたときに葵衣がいたら、わたしはそっと見なかったフリをしなければいけない。 旋毛を押し付けるように葵衣の胸に縋る。 体温の境目が曖昧になって、このまま溶け合いたいとさえ思う。 夜明けが葵衣を迎えに来る前に、光の届かない場所に隠してしまいたい。 けれど、どうしたって、わたしは葵衣に明るい空の下にいてほしい。 わたしがその妨げになっているのだとしても。 背を丸めなくても葵衣にすっぽりと包まれてしまえることに甘えて、月明かりとそのうち昇る朝日から逃れるように一ミリの隙間もないほどにくっつく。 そうして、目を閉じた。 優しい鼓動の音と、穏やかな寝息と、どこからともなく忍び寄る不安の気配を感じながら、眠りに就く。 明け方、葵衣がわたしから離れていく前に、一瞬だったけれど、何かを囁いた。 ほとんど吐息と同化していて、はっきりと言葉にはならなかったけれど、ぼんやりとさえも聞いてはいけないような気がして、シーツに顔を擦り寄せる音でかき消した。 物音を立てずに、荷物だけを掴んで葵衣が出ていったあと、遮るものをなくして容赦なく射し込んでくる陽光を細目で睨みつける。 ふわりとかけられたコートに残る葵衣の残り香を肺いっぱいに吸い込む。 ずっと微睡みの中にいたような感覚で、眠った気はしないけれど、この明るい中で寝直す気にもなれずに、重い体を起こして浴室へと向かう。 布団の上に落ちたコートを踏みつけて。 空っぽの浴槽を見ると、雨の日に葵衣がお湯を張っていてくれたことを思い出した。
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