言って、言わないで。

23/37
前へ
/132ページ
次へ
熱いお湯を頭から被り、両手で顔を覆う。 お湯よりも熱い雫が瞳から溢れ出す。 幸いなのは、葵衣の前で泣かなかったことだけ。 「言わないで……」 わたしは葵衣が眠っている間に伝えたりしなかったのに、わたしが眠っているのか起きているのかも確認せずに、切なげな声で、あんなことを言わないで。 壁に取り付けられた鏡に薄らと映るわたしの瞳は、昨夜の葵衣の瞳のように揺れていた。 もしかしたらずっと、わたしは葵衣と同じ目をしていたのかもしれない。 浴室を出て備え付けのドライヤーを窓際のコンセントに繋ぐ。 時刻は八時前。 始発はもっと早いはずだから、夜明け前に出て行くことも出来たのに、葵衣はそうしなかった。 単に少しでも長く眠っていたかったわけではないだろう。 少しでも長く、葵衣といたいというわたしの気持ちを見透かしたのか、それとも葵衣がわたしと離れがたかったのかは、考えないことにした。 頭上からの陽光は眩しいけれど、僅かに窓を開くと肌を突き刺すような風が一気に入り込む。 鼻腔に残る葵衣の香りを消すように、冷たい空気を吸い込むと、鼻や喉がキリリと痛む。 ドライヤーの温風に外からの冷風が混ざり合って、すぐに乾いた髪を両手で背中に払うと、ようやく目が覚め切った。 荷物をまとめて、自分のコートはボストンバッグに詰め込む。 代わりに、葵衣のコートを脇に抱えた。 部屋を出る間際、ぴしりと四方の揃った布団と、潰れた掛け布団を見遣り、苦笑が零れる。 夢のような、夜だった。 間違いなく、この旅行の中で最高の時間だった。 襖に描かれた松の絵を最後にじっと見つめるけれど、やっぱり約束は思い出せない。 けれど、なぜか漠然と、その約束は忘れたままでいる方が良いような気がした。
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加